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東西文化事情あれこれ 152回      

 「パイオニア 浅野の石油事業 」3          

                                         新田 純子

日本でもットも早いタンカー採用

 「浅野の石油事業」のテーマでこれまでコアの誌上で2回にわたり書かせていただいたが、石油事業に関する内容はまだまだ奧が深く、日本近代化の具体的事例を示すのみではなく、今の私たちの生活にも深く関わっていることをつくづくと感じる。

タンカーによる原油運輸の安全は、現在、国際的関心であり、国家の生命線であり、多くの諸問題の根幹となっている。しかし、それらの解決に、「強い者の理論」だけで、突き進めば、互いに疑心暗鬼の世界になってしまう。

つい最近、平成26年6月28日、日本郵船歴史博物館にて「浅野の石油事業」のテーマでの講演を終えることが出来た。この機会を企画してくださったこと、応援して下さった方々に感謝するとともに、興味深いことや、語り切れなかったことなどを、ここで紹介させて頂く。

 

 海外事情と連係する浅野の石油事業

マーカス.サミュエルが徒手空拳で明治4年に横浜に降り立ち、日本の海辺で拾い集めた美しい貝を輸出して最初の財をなし、日本でサミュエル商会(以後、サ商会と略す)を設立したのは明治8年であった。その後、日本から様々な雑貨を輸出して資産を成していった。

一説によると、マーカスはその資本を投じて、インドネシアの油田開発にも小規模ながら成功し、樽や缶に入れたりして油を運んだ経験もあるとも言う。インドネシアの油田開発の実証をまだ私は掴んではいないが、浅野の磐城炭などをマレー半島に輸出していたことは、「石炭輸出の際に、サ商会の支配人とは顔見知りとなっていた」との浅野総一郎の談話もあり、かなり早い時期にサ商会が磐城炭の輸出などにも関わったことは確かである。後にマーカスがロスチャイルドのバクーの油田と契約し、浅野が横浜を中心に、東日本一帯の販売の拠点になったことは、「渋沢栄一の保証」という形をとったが、直接の信頼関係が既にあったのであろう。

マーカスがバクーの油を運ぶために、たちまち、実用的なタンカーを設計できたのも、こうした苦労があったからであろう。 

 

ロシアのバクー油田

バクーは現代のアゼルバイジャン国内にあるが、昔から油が出ることで知られていた。油は皮袋に詰めてラクダの背に乗せ、イラン.イラクを通って遠隔地に運ばれたと言う。

本格的開発が始まったのは19世紀、1873年にはいってからで、ノーベル兄弟も油田開発に乗りだし、石油精製や輸送に関する様々な発明をなし、1878年にはタンカー.ゾロアスター号を建設。カスピ海を北上し、ボルガ川や陸路でロシアへ。また運河を通って、バルト海を経てヨーロッパまで運んだが、爆発事故などもあり、大変な苦労であったという。

ロス.チャイルド家は18世紀からフランクフルトで財をなしたユダヤ人一家であるが、バクー最大の油田.バニト油田の権益の掌握は1883年頃からである。ノーベル兄弟とも協力し、石油の輸送や技術の開発をした。

若き実業家.マーカス.サミュエルもまたバクーに目をつけ、知人のフレッド・レーンの仲立ちで、ロスチャイルドと契約し、東洋への輸出を企画した。それは、浅野総一郎と契約を結んだ1984年(明治24)であった。この年、なんとバクー油田の大噴油を見たこともあり、その企画に拍車がかかった。

なお、この3年前(明治21年)にマセソン商会により、ロシア油の日本への初輸入はあったが、小規模のものであった。 

東洋への長距離運輸の近道は1869年11月に開通したスエズ運河を通行することであった。英国が権利を押さえていたが、タンカーが通行すれば火災や爆発の危険もあり、それなりの規制があって、通行権を得るのは難しかった。マーカスはスエズ運河通行規制の条件を調べ、その条件をクリアーしたタンカーを設計し、通行許可を取ることに成功し、直ぐに、イングランドのグレイ社に船を発注したのだ。

明治24の暮れまでには3隻のタンカー、「ミュレックス」(Murex)、「コンチ」(Conch)、「クラム」(Clam))が完成。これらの船名はサ商会が日本の海辺で貝を拾って最初の財をなしたことを記念すべく、全て貝の名称であった。

なお、ホタテ貝は巡礼者の象徴でもある。

マーカス設計のミュレツクス号がスエズ運河を通ってシンガポール沖を通ったのは1892年(明治25)8月23日とのこと。そして、日本へは翌1893年(明治26)2月に神戸の和田岬にタンカー.コンク号が着いた。

「浅野がバラ積みの石油を販売する為に、平沼に油槽所を建設し、岐阜以東の関東一円の販売網を設け、《浅野のタンク油》として発売し、大きな利益を上げたこと」は既に述べた。

現代、ホルムズ海峡などを通るタンカーは皆、海賊に襲われはしないかと疑心暗鬼である。しかし、これを「ご近所付き合い」に譬えれば、自分の家に宝を運ぶのに、他人の庭先の狭い道を通る構造ならば、通ることに対しての「挨拶」や「謝礼」を充分に払うべきと私は思う。国際的関係において、そのことは、どんな方法でなされているのだろう。通ることが「国際法」により認められているとしても、その法律は、地元の価値観に基づいているのだろうか?誰が何時、何を根拠に定めたものであろうか。

軍備に多大な経費を掛けるのであるならば、同時に、通過地点近くに住む人々、特に、利益が行き渡らない人々に配分する方法を積極的に考えているのだろうか?家の庭先を何かが通る度に、余徳が降ってくるならば、爆発物を置いて通過者を阻むはずはない。「それほど簡単な問題ではない」と非難されそうだが、どんな大問題も基本はシンプルなはずなのだが。

さて、ここで少し、バクーの露油開発に話題を戻す。スエズ運河を通行出来たことで、大幅に運賃が軽減され、缶や樽の容器代が節約出来、輸入原価は米国油より安く抑えることが可能となった。米油に対抗すべく、受け入れ先の日本では、サ商会の要望通りに、浅野は「油槽所」というとてつもない建造物を横浜港にすぐ近い平沼に用意して、露油の到着に備えた。

サミュエル家の日本人贔屓は有名だが、明治24年以降、浅野石油部はシェルのタンク油販売も驚異的に伸び、「ロシア油販売」の実績を表すグラフが明治26年から急激に上がっていることからもわかる。

 

浅野とサ社の接触

マーカス.サミュエルと浅野総一郎の交流について、その例を挙げてみよう。

サ社は日本の石炭をマレー半島へ、日本の米をインドへ売るなど、アジアを相手にして、商売を大きく広げていったが、浅野の磐城炭をサ社が扱っていた実績もあったのである。浅野とサ社の石油契約が突然のように思う人も多いかもしれないが、このように実は既にある程度の信頼関係があっての結果なのだ。

明治29年7月に、総一郎は東洋汽船の社長として、航路設定の契約の為に渡米。12月には船舶発注の為に渡英した。ニューヨークからリバプールに船で着くと、「顔見知りのサ社の支配人のミチェル氏が出迎えに来ていて、ロンドンでの滞在などの世話を焼いてくれた。」との思い出話がある。それは、勿論、サ社は商社として、「船舶購入契約時のコミッション」が目的であったが……。このように、浅野はサ社とかなり親しいが、だからといって、サ社の思惑通りになっていたとは限らない。

船舶購入のコミッションは買い物が巨額であるだけに、高額となるが、総一郎独自のやり方で負けさせ、かつ、社主マーカス..サミュエルがブライトンで休暇中で、自らそこまで出かけて、マーカスのサインを貰ったりしている。

こうして、ロンドンに落ち着き、造船会社各社との折衝が始まる。この間もサ商会との交流はあるが、それは後述する。

サ商会は様々な物流を扱う商社であるが、特に日本の石油事業が隆盛であり、明治33年に日本の石油事業を独立させたのが、ライジングサン社。責任者はマーカスの弟のサミュエル.サミユとなる。浅野の販売機関であった各特約店などが引きつづき、ライジングサンと契約。

サミュエル家の親日ぶりは変わらず、この流れは続き、明治35年にマーカスがロンド市長となった時、日本大使と共にパレードの馬車に乗り込んだことなどでもわかるが。

明治36年となり、サミュエル.デターテイング.ロスチャイルドの三者でアジアンチックを設立。このことで、日本はアジアンチックの傘下に入った後、これまでの特約店はロシア灯油の他、蘭油も発売するようになる。

 

     ロイヤルダッチシェル誕生

蘭領インドとは現在のインドネシア辺りで、オランダ人.ヘンリー.W.デターティングという人物がオランダ王室の後押しで、蘭領インドの石油採掘と開発を始めた。ロイヤル.ダッチ.ペトロリアムがオランダのハーグで設立されたのは1890年(明治23)。この会社は1920年 (大正10)に国有化されるまで存続したとのことである。

当初はサミュエル社と激しい競争していたが、明治40年(1907)にシェル運輸貿易会社と60%対40%の割合で合同し、ロイヤル.ダッチ.シェルが設立され、シェルグループが誕生する。

こうして、スタンダード社とシェルグループがが二大勢力となる。

このような複雑な動きも、日本ではすんなりと受け止められ、浅野石油部スタッフであった人々は時にライジングサンの一員になったり、独立したりしながら、貝印の油の特約店や販売店として、車の普及などに伴い、昭和となればガソリンスタンドとなり、また、戦後まで各地のシェル大手特約店として残っていく。トレードマークは変わらず、「貝」である。 

さらに、日本では様々の合併統合を経て、昭和シェル石油(株)となる。シェルグループは今日、世界第2位の石油エネルギー企業である。

その大きな流れに沿いながら、特に初期の浅野は時に縄を縒り合わせたようでもあり、また、国内石油業では独自の思いもよらない新しい動きを始めていたのであった。

              つづく

 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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