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東西文化事情あれこれ 151回

パイオニア 浅野の石油事業 」2            新田 純子

      石油タンクのはじまり

 平沼油槽所

浅野石油部は貝印ロシア油を「タンク油」として、岐阜以東の関東一円、東北、東京、横浜を地盤として販売したことを先回述べたが、もう少し詳細をご紹介したい。

マーカス.サミュエルは、スタンダード社(ロックフェラー系)の米油が優勢であった日本の灯油市場に食い込む為には、運搬経費を安く抑える工夫が必要と考えた。そこで、容器代節約のために船舶に直接バラ積みにするタンク輸送、即ち「タンカー」を考えた。さらに、スエズ運河の通航許可を取ることに成功し、ロシアからはるばると、明治25年2月に神戸の和田岬に着岸した「タンカー.コンク号がわが国初のタンカーによる灯油輸入」であった。

販売拠点の神戸、長崎はサミュエル社自身が受持ち、横浜は浅野が引き受けたのである。

平沼は今日の横浜駅と高島町駅の西南の裏手辺りになり、まだ京浜工業地帯の埋立地もない時代、帷子川の岸辺は港が近く、工場立地の条件としては適切であったと云える。

しかし、石油タンクなどというものは聞いたこともなく、当然のことながら反対運動が起こり、油槽所建設問題は市議会にも持ち込まれ、ほんの1標差で、どうにか一件落着した。

こうして明26年10月より、浅野石油部は営業を開始した。売上に応じた割戻金制度の取り入れなどの工夫により成果を挙げた。

面白い点は、販売店の多くが、江戸時代には菜種油や胡麻油などを扱っていた老舗の油問屋屋が明治という新時代に、同じ「油」でも、「灯油」に切り替えた店が多かった点である。

従って、油屋の店員は皆、法被姿であった。

貝印のロシア灯油(タンク油)の販売で潤沢な資金を得た浅野はさらなる挑戦として、「国産油を輸入品に負けない品質に向上させねばならない」と決心し、明治29年7月の渡米の際、東大工学部出身の化学分析を専攻する近藤会次郎を伴い、高峰譲吉博士の紹介によって、当時の米国の最新石油事情を学ばせた。

そして明治31年に北越石油部を創設し、最新設備の大精油所を建設すべく、柏崎駅に隣接した1万2千坪の用地を準備したことも先回述べた。このことに関しても詳細を加えたい。

 

      鉄道と流通

浅野は「鉄道と流通」ということに関しては常に敏感であった。品物を安く消費者に届けるには、原価の中でも大きな割合を占める「運搬費」すなわち「鉄道や船」、後には「道路舗装による幹線道路網の発達」を常に意識していた。

総一郎は明治27年に長野を訪れ、県知事宅で談話した時、その石油ランプが煤や炎をあげるのを見て、越後の国産油の品質が外国産より劣っていることに気付いたことも既に述べた。

浅野はこの時、何の目的で長野を訪ね、長野からどこへ行こうとしていたのであろう。もっとも、総一郎は一年中、夜汽車で日本中を飛びまわる日々であったが、浅野が長野から直江津への信越本線に乗ったとしたなら、車中で決意したことは多々あったろう。この27年の行動の一つは、「日本海運同盟」のまとめ役として、日本海方面の津々浦々の有力船主たちを説得して、社外船の結束を呼びかけることであった。

ところで、当時の鉄道は「長野~直江津」は既に官営で施設されていた。しかし、直江津から新潟への官の鉄道計画はまだなかった。

そこで、以前から内藤久寬とともに石油事業を進めていた山口権三郎ら新潟の有志が明治21年頃から鉄道施設を出願していた。それに応え、渋沢栄一.前島密.銀林網男.大倉喜八郎.山口.内藤.それに浅野総一郎ら21名が発起人となり、27年4月に北越鉄道株式会社が資本金370万円で創設された。

ところで、この頃の浅野は以前にも増して、渋沢と親しい。その証拠の一つが、翌28年、私邸を北新堀から三河台に移したが、その左隣が渋沢邸であり、公私ともに密な交流があったことになる。なお、右隣が蜂須賀邸で、両家の現在はオーストラリア大使館となっている。

当時の浅野の心は既に海外に向けられていた。と言うのも、外国と対等に交渉する術としての英語の実用性を重く見、以前から、若き弘岡幸作という青年に英語を勉強することを薦め、その後、通訳を頼み、28年9月25日米国陸軍少佐を帝国ホテルに訪問し、アメリカの最新有力情報を得る為の会談を行っている。

総一郎の行動は、「突発的」のような印象を受ける場合が多いが、実際には数年前から、目的に向かって周到に基本から準備している。

明治29年には東洋汽船株式会社創設、明治31年には北越石油部を創設するが、そこに到るにはこうした様々な動きがあった。

 

国内の石油業

さて、当時の越後は、あちらこちらで油が噴出し、中小の業者が林立していた。しかし、それらの中で、内藤久寬の日本石油と山田叉七の宝田石油とが最も有望であった。

しかし国産油は品質の点で、外国油にはまだ追いついていなかったのが実情であった。

明治30年、日本石油の内藤社長もまた渡航して石油産業を視察し、主に西山油田を中心に、石油掘削、柏崎郊外の刈羽に精油所建設(原油処理能力400石)、パイプラインの建設に乗り出す。互いに切磋琢磨して開発が行われる。

 

 日本初の 「鐵製筒型タンク車登場」

浅野石油部技師長の近藤会次郎は帰国後、まず、老舗の油問屋で実地の仕事を経験し、名古屋支部に転勤。名古屋を拠点に、名古屋.岐阜.大垣に浅野直営の油槽所を建設した。

北越線は明治30年8月1日には、柏崎まで直江津方面から徐々に伸びていた。こうして、しだいに、東京の上野とも結ばれていく。

鉄道による石油輸送に備え、浅野石油部では明治31年、「鐵製筒型タンク車5両」を製作した。勿論、日本初の試みであり、浅野石油部は32年からは、自社のタンク車で、越後の油を各地に運んだ。「浅野のタンク車」は、またもや、新しい時代の牽引力となる。

ちなみに<sub>、</sub>越後の老舗.日本石油の場合は、翌32年にまずは木製タンク車20両を製造し、32年8月6日に、柏崎に日本石油本社移転。創立十二周年の大祝賀会を催した。

日石の鐵製タンクは明治33年からで、東京販売所を京橋に設置したのが、日石直営の新潟県外の販売拠点のはじめであった。

   

タンク車の普及

浅野の石油事業、特に販売力は宝田石油、そして、国油共同販売所の組織に引き継がれ、そのことは後に詳しく述べるが、タンク車普及の様子は(図1)の通りである。俄然、浅野系が他社を引き離していることがわかる。

 (日本石油 百年史 表2-5より頁130 )

  明治31年~33年のタンク車保有数 ↓

明治31年

浅野石油部

鐵製筒型タンク

 

日本石油 他社

鐵製筒型タンク

その後……

浅野石油部は

鐵製筒型タンク

増車

明治32

日本石油

木製タンク車

20

明治33

日本石油

鐵製タンク

15

明治41年11月現在 各社タンク車保有台数 ↓

 

所有者名

保有台数

 

帝国鉄道省

20台

 

国油共同販売所(浅野系)

271台

 

日本石油

 98台

 

ライジングサン

109台

 

小倉常吉

 48台

 

スタンダード社

 50台

 

桑原譲三

  5台

 

中野鉱業

 15台

 

 ライジングサンの誕生

明治33年(1900)の日本の石油界で特筆すべきことは、ライジングサン(株)(資本金25万円)の創設であろう。サミュエル商会の日本に於ける石油部門のみを切り離し、日本に地盤を置く会社であり、本社は横浜である。主に、マーカスの弟のサミュエル.サミユが先頭に立った。サミュエル一家の日本人贔屓は有名で、「日の出とともに、真っ正直に働く日本人」への親しみを込めての命名である。社のマークは勿論貝印である。

これを機に、浅野石油部で貝印の油を扱っていた人材や販売店がライジングサンと強く繋がることとなる。

この後、明治34年12月、サミュエル商会は正式にロイヤル.ダッチと合同し、資本を大きくする。明治43年の本社前での写真がある。そこには多くの日本人も写っている。

貝印の灯油は、それまで浅野のタンク油の販売で大きく実績を挙げていた店、東京では例えば、寺田忠兵衛商店.細山太七商店(屋号は寺田屋)や島田新介商店、その他がある。また、全国的にも多くの特約店があった。

 そして、後の昭和シェル(株)となる。

 

 柏崎に浅野製油所建設

32年から浅野のタンク車による越後の油の輸送が始まったが、こうして、浅野は、外国油と国産油の両方の販売を手がけることとなる。しかし、大きな目的は質の良い、安い油を消費者に届けることと、日本の技術の向上である。越後の石油開発に乗り出した浅野石油部の北越石油会社は、32年早春、柏崎の駅近くに製油所用地を購入。

32年秋に近藤は柏崎に赴任。その年12月、浅野削井部を創設。西山油田、新津油田で行動を開始。新油田は後に大噴油する。

浅野商店総支配人の白石元冶郎は32年4月、外国航路.東洋汽船のサンフランシスコの支店長となるべく香港丸で渡航。秋には一時帰国したが、主に外国航路の仕事に関わり、日本を留守にしていたため、浅野の石油事業で総一郎の片腕となるのは浅野石油部部長.藤井洪一である。

こうして、越後油の掘削と精製への挑戦が始まった。浅野石油部は、32年、パイプラインの会社.日本送油会社(資本金20万円)を作り、大噴油をみた長峰鉄管会社をも買収、また、石坂周造の鎌田と柏崎を結ぶ12里の鉄管を設置した。つまりバイプラインを張り巡らし、出油した油を効率的に精油所に運ぶ準備をした。

33年の雪溶けを待って、槌音高く、柏崎の精油所建設が始まった。先の渡航時に約束していた通り、外国人技師、ハースを柏崎精油所に招き、雇用した。ちなみに、ハースは明治25年から日本石油で働いた外国人技師である。さらなる近代設備に、貢献してくれたことになる。

こうして全般的日本の国産石油界の技術と合理化も進んでいった。

柏崎の浅野精油所は当時として最新の設備と最大の規模であると同時に、駅に近いことは、運送の効率という点で、非常に優れていた。

柏崎精油所は、当初の予算より10万円以上費用がかかったが、総一郎は黙って支出した。

ロシア油の販売で得た資金がかなり潤沢であった。総一郎の特徴は、儲けた金を内部保留せずに、すくに次の事業に廻してしまうことである。さらに、仕事に取り組むスピードか非常に早く、牽引力がある為に、日本の産業の近代化に次々と大きな影響を与えた。

越後に舞台を戻すならば、多くの石油業者が林立し、無秩序に削井を繰り返していた処に、なんと、資本金1千万円という外資系のインターナショナル社が参入したのも明治33年。人々は「イントル」と読んで恐れた。そして、日本人同士が小ぜりあいをしている場合ではないとの気運が高まっていくのである。

つづく

 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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