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東西文化事情あれこれ 150回 

パイオニア浅野の石油事業」Ⅰ

 

 「復興」をテーマに後藤新平がクローズアップされ、浅野総一郎と後藤新平との関係に焦点を当て、コア誌上で書かせていた。ところで、浅野と後藤新平のしられざる交流の一つに、新潟の石油界の合同に関する応援メッセージの一項もある。世間で知られているより深いところで、個人的心の交流があったからであろう。

さて、浅野を「セメント王」とのみ理解している方々が多いと思うが、正確に表現するならば、「エネルギー商人」である。実は、石油事業で大きな実績を残している。そのテーマに関して、もう少し、コアの誌面をお借りしたい。 

昨今、「海賊と呼ばれた男 上下」が人々の心に勇気を与え、本屋大賞を獲得している。ご存知のように、これは、太平洋戦争後、石油界でめきめきと頭角を現した出光佐三氏の一代記である。その人格の潔さ、経営手段、人生訓が素晴らしい。

ところで、明治初年からの石油界の物語、男の大ロマンを語るならば、実は、浅野総一郎の物語を迷わずに挙げることが出来る。

何故ならば、現在でこそ、原油を運ぶタンカー、油槽タンク、大規模精油所などは当たり前の光景であるが、明治初期から明治中期までの日本では思いもよらない光景であった。それらを最も早く日本に定着させたのが浅野である。

浅野は、60年以上世間より早く、石油事業での大スペクタルドラマを展開していた。

 

石油界のパイオニア

 浅野総一郎は、日本で最も早く、タンカーで運んだ油を全国組織をつくって販売し、日本で最も早く油槽所を建設し、日本で最も早く鉄製タンク車を製造し、優れた技術で精油所を建設し、当時、誰も考えなかった「安い重油を大型外航タンカーで外国から運び、日本で精製する」との企画を考え、石油コンビナートが林立する京浜地区の大地まで創り上げた男である。

 一人の人間の仕事とは思えないほどの実行力であった。しかし、生まれた時代が早すぎた。あまりに、進んだ考えであったために、世間から大きな抵抗力を受けた。とは言え、近代社会に目を向ければ、総一郎が目指し、実現しようとしたことのほとんどが、現実となっている。

 ここで、浅野の石油事業の原点から、心躍る大競争の数々を順次、ご紹介したい。

 明治6年(1873年)、総一郎が只同然の「竹の皮」で利益を上げていた頃、一人の青い目の青年が横浜港に降りたった。このユダヤ系イギリス人のマーカス.サミュエルも、まったくの只である海辺の美しい「貝」を拾い、せっせと国元に送った。貝はヨーロッパのキリスト教徒たちの間では巡礼者たちの宿泊所などの目印となっていたこともあり、先代は、既に貝の装飾品を売る店を持っていたこともある。貝印は巡礼者と信仰のシンボルでもあったのだ。

こうして、マーカス.サミュエルは「無から有」を生みだし、最初の大成功をおさめる。貝は後々、サミュエル商会のシンボルとなる。

横浜にサミュエル商会を創設したのが明治8年。雑貨などの輸出入に携わった。

 

浅野石油事業のはじまり

明治24年暮れに、渋沢栄一の保証の元で、サミュエル商会からロシア油を輸入販売の契約を結んだのか浅野総一郎である。

同年、春から横浜築港の入札が始まっており、当時、築港という難度の高い工事には外国からの輸入セメントを使用するのが常識であった。しかし外国産は樽28円もする。それに対抗して、浅野は「節税の為にも、国の技術向上の為にも国産を使うべき」と提言。浅野セメントは樽5円であった。こうして、最初の一万樽は外国製、残りは国産セメントを使用することと成った。

別の見方をすれば、セメント輸入に関与していたサミュエル商会は得意先の一つを失ったわけであるが、当時、サミュエル商会は新しい試みとして石油に目を付けていた。

当時の日本ではロックフェラー率いるスタンダード社の米国の函入り灯油が市場を独占しており、それに対抗する意味もあった。サミュエル商会のマーカス.サミュエルが米油より安くロシア油を販売する為に考えたのがタンカー船による運搬と、バラ売り油の販売に必要な「油槽所の建設」である。

マーカス.サミュエルは最初に「タンカーを設計した人物」とも言われる。

それまでは石油缶を船に積んでいたが効率が悪い。そこで、容器代が節約できるように、タンカーを設計デザインした。船で油を運ぶにも、缶詰めのものでは、容器代の分がかかり、高くなるが、容器代を節約すれば、末端価格、即ち消費者への価格も安くなる。

一方、「油槽所」の建設を受け持ったのが浅野総一郎であった。そのことは、シェル石油の社史にも浅野総一郎伝にも明記されている。

横浜港に近い平沼に用地を整え、後に次女.マンの婿となる白石元冶郎を総支配人とし、宮崎道興を横浜詰め主任とし、「平沼の油槽所」建設準備が始まる。

驚いたのは、平沼周辺の住民。無理もないことだが、石油タンクなど見たことも聞いた事もない。「危険である」と、横浜伊勢佐木町でビラを撒いたり、旗を持って、東京の北新堀にあった深川の浅野セメント工場に近い浅野事務所まで艀で押し寄せ、反対運動を展開した。入社間もない白石元冶郎は汗だくになり、住民をなだめる役に回った。何も事故が起きなかったのは幸いであった。

サミュエル商会は1892年(明治25年)からロシア油の買い付けを始め、その横浜の受け皿が浅野石油部であったのだ。

翌25年2月に、はじめてのタンカー.コンク号号がロシアのバツームからスエズ運河を通って、神戸に入港した。日本に於けるタンカーでの石油輸入のはじめである。

明治26年、いよいよ平沼に油槽所完成。同時に、石油を横浜から平沼までパイプを引き、港から油を運んだ。

神戸.長崎ではサミュエル社が直売し.横浜を拠点とした浅野は濃尾以東、主に関東、東北一円、北海道までを受け持つ。

26年11月、浅野石油部創設。40ケ所ほどの販売店を開拓し、ロシア灯油販売を開始した。また、浜松、静岡、沼津、国府津、平塚、水戸、高崎、仙台などに油槽所を建てた。米国油が主であった世界情勢からすると、新しい試みであり、実際、油の質もよかった。

浅野総一郎は販売の天才であった。売り方に独自の様々の工夫をした。例えば、売り上げにより、1万樽以上売れば、割り戻し金を出すなどして、瞬く間に、「浅野のタンク油」は、スタンダードの米油を上回る人気となる。

当時の隆盛ぶりは、明治28年10月に浅野石油部に13才で入社し、後に石油界の長老、石油組合の重鎮(語り部)となった磯辺氏の談話(昭和33年発行 石油界1月号)にも詳しい。「多く売れば、割り戻しがある制度を取り入れたので、3ケ月で5万函以上、半年で十万函以上の契約で、実際に、月に七万函、八万函を売り上げていました」と語っている。

販売店となったのは、江戸時代の老舗の菜種油屋や胡麻油屋、ロウソク屋さんや薪炭商などが時代の変化に沿って、「油屋」となる例が多かった。

当初、東京には「八扇会」なる特約店組織を作ったが、安い製品を消費者に届けるには、中間マージンも馬鹿にならず、しだいに最も力のある販売店が直売の卸し問屋となっていく。

日本橋小網町の「島田新介商店」や永代橋に近い越中島の「寺田忠兵衛商店」その他があった。寺田屋はその後、浅野と太いパイプで繋がり、様々な形で、浅野の石油事業をサイドから支えていくことになる。

 また、馬が引く赤い車の配達員が、容器費を削った分、人々に直接、安く届けた。

こうして浅野総一郎は、潤沢な資金を手にしたのだ。総一郎の特徴は、手にした資金を直ぐさま次の事業の資金とすることである。

 

第二章 国産油の精製技術を高めよう!

米油に対抗し、貝印の「浅野のタンク油」で大きな利益を上げていた総一郎であったが、明治27年に長野方面に出掛けた時、滞在先での石油ランプの燃え方が気になった。煤が出たり、急に燃え上がったり、嫌な匂いがする。聞けば、「越後油」であるとのこと。ここで、国産油の精製技術が非常に立ち後れていることに気付いた総一郎は、猛然と、「国産油の精油技術を高めねばならない!」と、決意する。

つまり「越後油の精製」を決意したのだ。

そこで、以前から懇意であり、当時、農商務大臣であった榎本武揚に「どうか、優秀な化学者を紹介して下さい。私費で留学させ、石油精製技術を学ばせたいと思います」と頼んだ。そうして、紹介されたのが、東大工学部で電氣分析を学んだ近藤会次郎であった。近藤は、また、娘婿の白石の2年先輩でもあった。浅野商店に高給で迎えられ、そこに籍を置きながら、「化学工業全書 ~石油遍~」の執筆に没頭し、脱稿するや、明治29年、総一郎と同じ船で、米国に旅発ったのだ。

アメリカには高峰譲吉博士がいる。この素晴らしい日本人学者の紹介で、米国の最新鋭の石油事業やその技術習得をした。

明治29年~30年に掛けての渡航時、英国に着いた浅野をサミュエル商会の支配人.ミッチェル氏が港まで出迎えており、総一郎とは顔見知りであったことがわかる。

翌30年、春に帰国した近藤はまずは、前垂れを掛け、油問屋の店を回り、さらに明治31年夏、浅野石油部名古屋支店に勤務。ここで、快挙を成す。即ち、「日本ではじめての筒型鉄製タンク車5両」を製造した。これは鉄道での油の運搬を考えての準備であった。日石などの他社がまだ木製タンク車も使用していない時のことである。

この頃、寺田忠兵衛商店は浅野の娘を養女に迎え、実質的な浅野の石油販売機関となったが、このことは世間にあまり知らせていない。

 

  越後に東洋一の精油所建設

31年、総一郎は越後の石油事業開拓のために、「北越石油部」を創設。

明治31年暮れから近藤と白石は浅野精油工場の候補地を求めて、越後を歩き、北越線の柏崎駅の隣に1万2千坪の広大な用地を獲得した。そして、32年、春になると、白石は東洋汽船のサンフランシスコ支店の用向きの為に、家族を伴い、渡米する。従って、浅野野の石油事業の実務は、浅野の片腕として藤井洪一が事務方を、技術面を近藤会次郎が受持つこととなる。

「やる以上は、外国に負けない東洋一の精油所を造る」と総一郎は決意。

この頃の越後も東京も各社の石油業で沸き立つような賑わいを呈しはじめる。

     つづく

 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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