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浅野総一郎と後藤新平の接点 第五部

今回は、「大正7年前後から大正10年まで焦点を当てる。大正7年は日本の近代化が猛スピードで進んだ時代である。

後藤新平もまた政治家として充実した時代であった。それまでの台湾統治は後藤にとっては、「理想的都市計画」を具体的に考え、実践する場となったが、さて日本に目を向けると、なんと、日本ではまだ東京を例にとっても、理想からはほど遠い。そのことにまず気付いていたのが、民間では浅野総一郎、安田善治郎であった。そこには「港湾計画」「舗装道路計画」「上下水道計画」などがあり、「金融面は安田が責任を持つ」ことで、明治30年頃から何度も東京市に計画申請を提出していたが、夢のような計画に役所がokを出すはずはなかった。

後藤は内務大臣を一年半ほど勤めた後、大正7年4月から9月まで外務大臣を勤め、この間、しきりに海外に赴いている。この当時、民間でもまた海外渡航が盛んで、化学者高峰譲吉博士(三共製薬創設者.ヘベークライトなどの技術導入に貢献)の援助で、浅野は積極的に海外の先端技術吸収に努めていた。

後藤が渋沢栄一の推薦もあり、東京市長となったのは大正9年12月から大正12年4月までであった。この間、後藤は、「江戸からの町.東京を国際都市として発展させるにはどうしたら良いか」を考え続けていたに違いない。その計画推進に、安田は当時のお金で350万円を東京市に寄付することを申し出た。

一方、浅野の事業も発展し、最盛期には関連会社まで入れれば70社以上に及び、直系の会社だけでも30社近くとなっていく。当時は一人が百程度の事業に関わることは希ではなかったが、浅野の場合、それらが表面的な役員ではなく、ゼロから苦心惨憺して自ら築いてきた「ものつくり産業」であることが特徴である。

中でも、注目すべきは既に明治42年頃から「道路舗装」なるものの必要性を叫び、また、実践し始めたことであろう。浅野傘下の石油会社のアスフアルト技術者であった高桑籐代吉は天然アスフアルトのみに頼るのではなく、将来性を考え、石油採掘の際の廃棄物であったピッチからのアスフアルト製造の技術を研究し、社長の寺田洪一(浅野の娘婿)に提言し、中外石油アスフアルト会社と改名したのが大正2年であった。当時の東京市の道路状態は雨が降ればぬかるみ、天気になれば土埃が舞い、ひどい状態である。高桑技師は大正7年から8年にかけての一年半の留学を前に、「将来東京市の道路をいかに舗装すべきか」なる論文を書き上げ、多くの有識者たちに配布した。

同じく、浅野の傘下の部下たちを総一郎は積極的に渡航させ、外国の進んだ技術を吸収させ、それらをいち早く事業に取り入れた。水崎基一は新島譲の息吹に中学生時代に触れ、同志社大学設立に尽くしたが、諸事情あり、大正8年頃から親戚の紹介で浅野家をよく訪れた。その折り、総一郎の依頼で、高い理念の工科テクノロジー教育視察のため渡航した。また、浅野石油技師の近藤会次郎も高峰譲吉と共に欧米を回り、近代化学の特許などを取得。もっとも、外国と日本とでは細かな事情が違い、浅野は困難にぶつかる度に、それらの機械や技術を現状に合うように改良し続ける。こうして、「ものつくり 日本」の基礎を築いていくのである。

ちなみに、浅野は直接政治に関与することはほとんどなく、渋沢こそが政府とのパイプ役として力を発揮した。浅野はひたすら現場を奔走し、日本の産業の底力を強めた。

大正8年の様々な出来事を記すならば、

◆浅野物産がライジングサン(後のシェル石油)のサミュエル.サミユと販売契約を結ぶ。◆浅野造船所では、この年、13隻もの1万トン級大型船舶を建造。浅野ドックでは1万トン級の船舶の修理を可能にした。◆7月16日、長男岳父.板垣退助逝去。◆9月、庄川水力電気会社創設。◆10月、関東水力電気会社設立。◆同月、小倉製鋼所設立。などの業績がある。 

なお、11月からは世界大戦がはじまる。

大正9年も引きつづき様々な事業が実践されていく。例えば、◆大正9年1月4日、技師.近藤の奮闘により、カーリットの初荷。

◆1月12日には、浅野総合中学設立許可申請。◆3月26日には、浅野造船所において、鋼版製造から造船までが可能となる。また、同じく3月には、◆鶴見埋築が(株)東京湾埋立会社となった。永年の念願であった鶴見側河口地に埋立許可が降りたのだ。

いよいよ、大正9年4月には、水崎基一氏を初代校長として、浅野学園の開校式が行われる。

しかし、春頃から「不況風」が経済界を吹き荒れる。銀行取り付け騒ぎが起き、それを乗り切ろうと、浅野系会社でもさらなる積極策や、同系企業統合などが行われる。故郷の水力発電も資金難などで苦しむが、初志貫徹。結果としては、工事のために建設した百万円道路は地元民の交通手段としても重宝され、冬期も富山と岐阜地方を結ぶ大切な道路となる。

◆大正9年9月には日本鋳造会社設立。◆同9月、信越木材会社設立。◆また初秋頃、放置された製鉄所に安田を誘い、復活せしめた。

実は総一郎は金融面つまり銀行業にも実績を残している。◆大正9年7月から12月にかけて、浅野昼夜銀行の支店を多く設立。今日のATMと同じに、閉店後夜分近くまで取引できるシステムである。ちなみに、浜松町の世界貿易センターの、みずほ銀行(富士銀行)はもと浅野浅野銀行.芝支店であった。◆また、暮れには、浅野造船所で航空母艦鳳翔を起工した。

 

電氣通信と浅野と後藤

さて、ここであらたに浅野系事業の一つの沖電氣について説明しなければならない。

創始者の沖牙太郎は技術者としての才能を開花させ、電気通信器機の製作所として明電舎を創立したのは明治11年。電話器が日本で広まるにつれ、沖電氣として発展していく。

 実は、沖牙太郎の妻と浅野総一郎の妻が偶然ながら姪叔母の関係で、年はほぼ同年である。二人とも狩野派の絵師の血を引いている。そんなこともあり、沖電氣の草創期から浅野も経営に助言などをしていた。渋沢栄一や浅野たちは東京市内でも電話を引いた最初の人々であり、また富裕な実業家や政治家たちの家庭にも電話機が普及していく。

しかし、明治34年に沖牙太郎が亡くなる。こうして、沖電気の経営に本格的に浅野が乗り出すこととなる。

電話は通信器機の基本技術が含まれ、逓信省の管轄の元にある。後藤新平が逓信大臣となるのは第二次桂内閣で逓信大臣を大正8年から11年まで務めた。ここでも、あきらかに後藤と浅野の接点があるが、それは日常的な場面の延長であり、特別のこととも云えない。戦前から日本が高度成長を遂げた近代は、エレクトロニクスの発達は世界をリードしていた。「同軸ケーブル」などの技術は電話器の技術が発達したものであり、海底ケーブルが日本と米国を繋いでいるのはこうした技術の蓄積である。即ち、浅野総一郎が社長として牽引していった沖電氣、電話器の技術は逓信大臣の管轄範囲になる。

 第六代逓信大臣.野村靖は明治29年9月26日から明治31年1月12日にかけてである。

<sup> </sup>後藤が第20代逓信大臣を引き受けるのは、大正元年12月21日から翌年1913年2月20日までであった。逓信省と海運業との結びつきは航海中の無線交信とおおいに関係あり、明治29年から、農相務省管轄から逓信省の管轄と成った。逓信省はまた電話通信の発達と深く関係していた。船舶無線、通信、そして後藤新平との関連ではさらなるエピソードが関東大震災時を機にあるが、後に廻す。

 

   後藤新平、第7代東京市長に

 このように国内産業の近代化が進む大正9年、渋沢栄一らの推薦で12月17日、第7代東京市長.後藤新平が誕生した。しきりに話し合われたのは、世界の国際都市として恥ずかしからぬ東京にすることであったろう。

まずは、幹線道路の設計による交通網の充実、築港計画などである。安田も浅野も「港の整備されていない都市は玄関のない家と同じである」との信念であり、安田は「築港は私の悲願である」と述べている。

 民間では13億円かかるとの試算が出た。これだけの予算を支えようとしたのが金融王安田であり、その仕事を実現する力があったのが浅野。政治経済界との綱渡し役が渋沢であったろう。後に、後藤は「8億円計画」を世間に発表し、「後藤の大風呂敷」と話題になる。

 

     不燃建造物の必要

 10年4月、奥多摩工業では奥多摩の石灰石 採掘権を獲得。同じく4月、南武線計画は  青梅の石灰石運搬のためである。浅野の驚くべき事業拡大は、決して個人的な欲ではなく、産業育成に必要なことの先取りであった。ちなみに、国家予算に匹敵する金を動かし、何千人もの従業員と家族の生活を支えながら、浅野の個人生活は質素そのもので、靴下、下着の類はツギをし、大勢の家族の食卓によくのぼるのは、鯛ではなくイワシの煮付けが多かった。

そんな中でも夢は大きく、息子とともに、大正10年頃、9台の乗用車を試作し、ヴィーナスと名付けた。日産自動車などが生まれるよりずっと以前のことである。

同年、5月16日には、油槽船.美洋丸が浅野造船所で完成。また、同年5月、建物の不燃化のため、鉄筋コンクリートの技術完成。火災に強い街にするためには鉄筋コンクリート建築を普及することが望ましく、函館大火の悲劇もあり、総一郎の故郷の富山に初めての鉄筋コンクト3階建ての建物が完成完成した。これに倣い、東京市内では 三共製薬のビルがコンクリート製と成った。ちなみに、関東大震災後の大火災跡にこのビルのみが焼け残った。

 

国際都市の玄関としての築港

二人で心ゆくまで、事業の夢を語り合おうと、大正10年5月14日、大洋丸で総一郎は安田と船旅に出る。中国革命家の孫文にも面会したりした。その航海上、「金融は安田に任せ、浅野は仕事を」との男と男の約束が交わされ、日本銀行と改名した浅野昼夜銀行などは全て安田銀行の系列に入ることとなる。安田善治郎は「東京湾築港は生涯の目標である」と明言していた。このことにより、浅野は心おきなく仕事に邁進できる筈であった。しかし、 ......。 

大正9年9月29日、安田善冶郎が凶弾に倒れる。金融はものことを推進する血液のようなものであり、全ての計画は頓挫したかと思われた。ここから、浅野は自力でこの大きな夢を果たすべく孤軍奮闘していかねばならなかった。

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 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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