世界をつなぐ 人類の智慧 歴史

きずな ~伝承の数々~

  

  

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浅野総一郎と後藤新平の接点 第四部<o:p />

今回は、大正7年前後に焦点を当てたい。<o:p />

ちなみに、当時の浅野の事業についてを述べるならば、「浅野セメント工場経営」は勿論、「浅野造船所は未曾有の利益を挙げ、1万人以上の人が働いていた」「製鐵部門を浅野の中に作ろうとしていた」「船鐵交換条約を米国と結んだ」「3月.浅野物産創設」などが挙げられる。<o:p />

また、これまでの流れを振り返れば、当時、世界一の新機軸を備えた天洋丸(12000トン)をサンフランシスコ航路に投入し、当初からの第一船であった日本丸、アメリカ丸を南米航路に投入する時、総一郎は後藤にも相談した。外国航路運営には外国人との様々な手続きが必要であり、総一郎は後藤を智慧袋としておおいに働いて貰っていたのである。こうして、東洋汽船は様々な困難を乗り越え、やがて国際競争にも勝ち抜き、サンフランシスコ航路の全線の航路権を手中に納めたのは大正6年である。<o:p />

大正6年は、浅野の事業、特に石油部門にとって、後に述べるように大きな変革期、曲がり角であった。<o:p />

さて、大正7年から世界は大不況に見舞われる。その中で、生き残りをかけて、さらなる活動が進む。後藤新平との交遊も細く長く続いており、この年の事項として特筆すべき記録が幾つか見付かる。次の二点について述べよう。<o:p />

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1)大正7年 故郷富山での開発企画<o:p />

北陸タイムズ711月13日の記事には、<o:p />

高岡を 裏日本の名古屋に<o:p />

   来県中の浅野家.  杉村水利部長 語る」<o:p />

との見出しで、紹介されている。<o:p />

総一郎が生まれ故郷は富山県の氷見で、高岡や伏木から近い。総一郎は何度か、故郷に立ち帰っており、その時のニュースであろう。<o:p />

「高岡~伏木運河開削計画を 総一郎の名で、井上知事の副申請を添えて、後藤新平内務大臣に申請している。やがて、認可の運びとなるであろう」 とのことであり、かなり楽観的見解である。注目すべきは、「後藤新平内務大臣に申請」と、あることであろう。しかし、結果から云えば、これは実現しなかった。<o:p />

後藤と浅野が知人だから何でも通過させたわけではないことの証拠でもある。が、今回のテーマ「後藤新平との具体的接点」の一場面が大正7年にもあったことの証拠となろう。<o:p />

浅野は、「物流を活性化することが地域発展には大切であり、運河開削が有効である」とのコンセプトを抱いていた。現に小樽運河は小樽の発展を支え、京浜地区には壮大な運河を築き、各工場の玄関先まで原材料を積んだ船が横付けできるようにしている。また、工場の裏からは、鉄道が敷かれ、消費地に直行している。このように、構造的に工場地帯を形成することで、日本の工業や産業の発達を促しようとした。こうして、故郷を発展させたいと願ったのである。<o:p />

また、この計画取りやめの別の理由としての事情は、総一郎の他のさらなる大計画と重複し、より大規模計画の方が優先されたため、つまり、翌大正8年からはじまった故郷の「庄川水力発電(開発関東水力)」、および、群馬の後の佐久建設ダム計画の企画と重なり、より大規模な根本的な計画が優先されたためであるようだ。<o:p />

上記新聞記事は、「氷見春秋・・号」に紹介された記事だが、その後の文面は次のようてある。<o:p />

「井上福知事は、その後、大正84月、神奈川県知事に転任したが、庄川水力発電、関東水力の創設、などと重なり、幻の計画となった」と結んでいる。藤は内務大臣を大正5年10月から、外務大臣を大正74月から9月まで勤めていたが、実は。この企画書が提出された11月には外国に出掛け、内政に関与していなかったことも多少関連はあるかもしれないが。<o:p />

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)道路舗装の揺籃期<o:p />

さて、第二のテーマは、「東京市の未来道路<o:p />

計画について」である。<o:p />

後藤新平の大活躍の一つが「関東大震災前後」<o:p />

の東京大構想とその実現であろう。<o:p />

ころで、都会として必要な道路鋪装に関しては、相当以前から、ある種の熱情をもって、浅野傘下の技術者によってその必要性が叫ばれており、少し詳細に述べよう。<o:p />

時間を明治24年に巻き戻すならば、「サミュエル社(後のシェル石油。)の初のタンク油販売」に連係して「浅野石油部」が乗り出した。また、やがて明治31年には北越石油部を発足し、「東洋一の柏崎精油所」「宝田の大合併(浅野筆頭株主に)」「国油共同販売」などで、浅野は大きな働きを残した。また、国内産油量の少なさに気付き、外国から船(タンカー)で重油を輸入し、南北石油(寺田洪一社長)を創設して一手に国内での精油事業を盛り立てようと挑戦した。そこで、保土ヶ谷に「東洋一の精油所建設」が猛然とはじまり、浅野傘下の技師、近藤会次郎、高桑籐代吉、関根博らが献身的に働いた。結局、「大型外洋船舶を石油燃料で走らせる」というこの大計画も国内業者の関税問題で反対に遭い、南北石油は宝田石油に統合。<o:p />

その一方で、石油採掘と同時に、秋田方面(豊川村)でのアスフアルト採掘が盛んとなり、明治42年には中外アイフアルト(社長寺田洪一)が発足した。この時、寺田は南北時代の技術者であった高桑籐代吉を中外アスフアルト()の技術者として抜擢。秋田の豊川には富な鉱脈があり、まずは工場などの防水工事に用いられ、成果が上がっていた。<o:p />

しかし、秋田県豊川の自然アスフアルトの採掘のみでは、いつかは掘り尽くしてしまい、資源枯渇と共に先細りとなるのは目に見えている。そこで、高桑技師は、石油採掘とともにでる副産物からアスフアルトを製造する技術を実用化した。社名も、大正2年10月に「中外石油アスフアルト」と変更。<o:p />

時の仕事としては、【明治42年から大正3年にかけて、神戸税関の突堤道路2万坪をアスフアルトで築造し、大正天皇ご即位にあたり、京都駅のプラットフォーム、陸橋、本屋床面その他の施工であり、当時の中外アスフアルトはこの工事に使用する材料の85%までを一手に引き受けた。これが、同社にとっては、高桑技師の苦心の作である石油アスフアルトによる最初の記念すべき工事であった。(書籍 日本鋪道のあゆみ より引用)<o:p />

同時に、サミュエル.サミユからの貝印石油の販売が盛んになり、これも実は浅野系であり、かなりの利益を上げた石油事業だったが、その牽引力である寺田洪一が大正初年に病に倒れ、大正66月に亡くなる。この時点で、浅野の石油事業は実質的に終わった。<o:p />

前置きが長くなったが、話はここからである。<o:p />

「高桑籐代吉」が愛したのは、それまで情熱を込めて、石油採掘からのアスフアルト製造を手がけた中外アスフアルト()であった。<o:p />

しかし社長も亡くなり、そこで、高桑は、これを機会に退社し、群馬県の桐生工業高等学校の教授となる決意をした。意に染まない宮仕えより、次の世代に、技術を伝えようとした。<o:p />

日本は明治11年に、国内で由利公正が神田昌平橋の橋面舗装を試み、成功していたものの、それ以来この時期まで30年間以上、道路舗装が進まなかったのは、自動車の発達が遅れていたことも一因である。高桑籐代吉は、しかし、自らの責任として、当時、日本石油社長(合併した元宝田石油の社長)であった橋本圭三氏に烈々と語ったのは「将来のアスフアルト産業と道路舗装の重要さ」であり、橋本圭三は、高桑技師の提言を取り入れ、新しく出発した日本石油()に特別に「アスフアルト部」を創設した。このように、アスフアルト舗装に関する技術向上と研究が着々と進んでいた。<o:p />

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近代舗装道路の揺籃期<o:p />

当時の日本の道路事情の立ち後れをどうにかしたいことは、総一郎の早くからの悲願であ<o:p />

った。東京の路は雨が降ればぬかるみ、晴れれば馬糞も乾いて、土埃となって舞い上がる。そこで、折りに触れ周囲や国に訴えていたが容易に理解が得られなかったようである。<o:p />

大正6年、道路法案が閣議に提出されたが、逓信省との協議不調で決定に至らなかったが、ようやく、翌7年6月には内務省土木課に道路課が設置 された。<o:p />

また、大正7年には渋沢栄一、後藤新平らが提唱してアメリカから経済視察団を招き、大いに鋪道に関する日本人一般の目を開くべく努力した。その時、つぶさに当時の道路を視察した団長のサミュエル.ヒユは、後、「日本の道路は道にあらず田圃である」とまで、酷評した。<sub><o:p /></sub>

こうして、公共的利益のために、道路舗装の必要性がやっと社会を動かす知識人、及び一般人に浸透した。<o:p />

渋沢.後藤発のアイデアを浅野が下請けしたように受け取られがちだが、事実は少し違う。まずは現場の浅野らの奮闘があり、その必要性を世間に知らしめるべく、渋沢や後藤新平が登場する。彼らとともに働いた後藤の信念の「自治三訣」とは「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして、むくいを求めぬよう」なのだ。<o:p />

一般的な知識としては、「日本で初めてアスファルト舗装が施されたのは長崎グラバーの歩道である。その後東京で舗装が始まり、秋田県からはるばる天然アスファルトが運ばれた」程度の記述しかない。しかし、その後のことが浅野の傘下で遂行されていたのだ。<o:p />

さて、大正7年に中外石油アスフアルトを辞任し、後輩の教育にあたった高桑の心は日本の未来にアスフアルトと道路舗装が果たすであろう役割であった。そこで、高桑は論文を書く。その前後の事情には、書籍、「日本鋪道のあゆみ」に下記の文献がある。<o:p />

「桐生高等工業の教授となった後もアスフアルト研究に対する情熱は変わらず、講演、著作などによって都市当局、その他一般識者の啓蒙に生涯を捧げていた。その一例として、大正8年に、英米仏三ケ国に1年半の留学に出発する直前に、「東京市の鋪道」という論文をまとめ、「将来、東京市の道路をいかにすべきか」との印刷物を国務大臣、貴衆両院議員、府知事、その他道路関係者などに広く無料配布し、大いに世論の喚起に努力した。このように、道路舗装の機運が民間から高まり、8年3月には国内に道路改良会という組織が内務省の外郭団体として結成され、12月には道路法が成立した。 <o:p />

一方、大正8年.9年頃には浅野.安田.渋沢らにより、大東京の道路構想、そして築港計画が討議される。大正10年の安田善冶郎の突然の訃報、そして、大正12年の関東大震災の大災害により、あらたな曲がり角を迎える。<o:p />

大正9年11月に後藤新平は東京市長となる。市長給料にさらに自分の金を足し、社会事業に寄付したことは有名なエビソードである。<o:p />

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★☆★☆こぼれ話★☆★☆<o:p />

浅野総一郎とサミュエル商会との付き合いは長く、サミュエル社が初めてロシア油輸入にかかわった時から、浅野石油部はタンク油を全国販売に乗り出したのだ。また、東洋汽船の船舶発注のために渡英した明治29年暮れに、英国で総一郎を出迎えたのは顔見知りのサミュエル社のミッチェル氏であった。<o:p />

サミュエルの日本人好きは有名だが、18才で日本に初めて来た明治4年、湘南の海で貝を拾い、只のものから巨万の富を生みだした。総一郎も同じ明治4年暮れ、24才の時、只同然の竹の皮で後の事業の軍資金を稼ぎ、「日の出とともに早起きする」ことが信条であった。<o:p />

「ロシア油の10年契約」で浅野と強い絆があったサミュエル社だが、サミュエルの弟.サミユが明治32年4月11日に横浜にライジングサンのシェル石油を創設した。シェル石油の油の卸し問屋として東京市で大きなシエアーを持ったのも浅野系である。<o:p />

ところで、日本の道路視察に訪れた米国人サミュエル.ヒルとは?どのような経歴の人だったのだろう? 「シェル石油」創始者のマーカス.サミュエルは11人兄弟であったとのことだから、その兄弟か、と思ったが確証はない。<o:p />

こんなリサーチをしていた最近のこと、実業家.斎藤茂樹氏のHPにその名を見付けることが出来た。その記述よると、「シアトルのコロンビア川下流近くにメアリー.ヒルズ美術館があり、その創設者はこの地域の道路建設を進めたサミュエル.ヒルである」との書き込みがある。このサミュエル.ヒルこそが、大正7年に来日し、「銀座通りは田圃か」と皮肉った道路王その人であろう。<o:p />

 ※ヨーロッパでは巡礼宿には貝が飾られていて、 貝は巡礼者にとっての一里塚のような目印。<o:p />

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 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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