世界をつなぐ 人類の智慧 歴史

きずな ~伝承の数々~

  

  

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近年、「復興」が大切な問題となっているが、関東大震災後の東京の復興を素早く実行に移したとして第一に挙げられるのが後藤新平であろう。しかし政治のリーダーのみで改革や復興が実現することは至難の技であり、実はそこに民間実業家たちの協力があったことに最近、スポットが当てられた。 <o:p />

そこで、「後藤新平と五人の実業家」というテーマでのシンポジウムが「後藤新平の会」主催で開かれたが、五人の実業家とは「大倉喜八郎」「安田善治郎」「渋沢栄一」そして十歳年下の「益田孝」と「浅野総一郎」である。若き後藤新平と人生の先輩格の実業家たちとの交流は深く、新しい風を社会に吹き込んだ。<o:p />

その中でも、後藤新平と浅野総一郎との関係にスポットを当て、今回で三回目となる。<o:p />

これまでを整理すれば、最初の後藤と浅野の接点は、「コレラ予防」に伴う衛生局とコールタールであった。次の接点は、帰還兵の検疫業務に伴い、様々な建白書を提言する後藤と、外国航路民間船舶会社創設を準備中の浅野との交遊であった。浅野が外国航路にその後、30年間以上関わるが、常に「外国からの疫病の防止」という点ではつながっていた。<o:p />

さて、今回は、明治29年~明治42年までの互いの交流を振り返りたい。<o:p />

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「後藤と浅野の接点 第三部」<o:p />

新興近代国家として明治政府が進めた「富国強兵政策」の結果、「日清戦争」が起きた。戦後に育った私には知らないことばかりであり、かつ、理解しにくいことだが、日本は戦勝国として「台湾統治権」を国際的に認められた。米国はハワイを統合し、他の欧米列強が亜細亜に進出していた時代であった。<o:p />

明治28年3月に戦いが集結し、まず、多くの帰還兵が船で帰国したが、この時、コレラなどの悪疫が伝染しないように、後藤を帰国兵検疫の任務に当たらせたのが児玉源太郎で、責任を全うした後藤への信任は厚くなった。<o:p />

当初後藤は台湾総督府衛生顧問嘱託として台湾に赴いていたが、明治31年春に児玉源太郎が台湾総督となるや、その人格と能力に信頼を置いていた後藤新平を3月2日、台湾総督府民政局長に任命した。後藤がその真価を発揮するのはこれからであろう。<o:p />

植民地統治への現地の人々の反発や抵抗運動は当然のことだが、後藤はそれを押さえたうえで、「人が快適かつ文化的に暮らす環境整備」を台湾という地で実践していった。即ち、疫病対策のために、上下水道を整備し、道路などの交通を整備し、学校教育制度を整え、産業として製糖業を起こし、こうして台湾の近代化が急速に充実し、進んだ。<o:p />

住みやすい都市や国とするために、日本人が現地の人々と共に開発した事項は多い。このことは、最近、台湾に遊びに行った友人が台湾の方との交遊を通して、肌で感じたことである。親日家が多いことは決して偶然ではなく、「台湾総督府民政長官」となった後藤新平の貢献が大きいことを改めて気付いたしだいである。勿論、他にも様々な考え方があるであろうが。<o:p />

後藤の実践には「政治の倫理化」「生物学の原則」という独自の価値観があったと云われる。即ち、何処にいても常に「倫理的に良しあしをを判断する一貫した態度」である。それが「公共性と公益性」に通じる行動と方針であったろう。結果、台湾では日本本土より先に、ある部分では都市整備が整い、後の東京復興のモデルケース的な経験をすることとなったようだ。<o:p />

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上下水道環境<o:p />

東京、いや日本は国際的に見ても上下水道が完備していることは誇りにすべきであろう。私たちにとって当然過ぎることも、実は明治の先人達による智慧と努力の結晶である。<o:p />

流行病を予防するために後藤が尽力した具体策の一つが都市における下水完備なのだ。<o:p />

上下水道整備というインフラで一人の外国技師の名が浮かぶ。パ-マーは、横浜の水道環境を整備した技師である。その後、横浜築港にも尽力する。このようなインフラにはセメントが必需品であり、当然、浅野総一郎との接点がある。パーマーが浅野セメント工場のあった仙台屋敷を訪れていた記録もある。<o:p />

 下水道設備の最初の浅野の体験は明治12年、横浜市内に64の西洋式公衆便所を設置したことだが、江戸時代は竹筒などであった下水は、近代国家となると土管やヒューム管へと変貌し、さらに近代になるほどに巨大な構造物として発展していく。ちなみに、浅野系の会社に「日本ヒューム管会社」があるが、ヒューム兄弟の持つ特許を浅野が日本で採用した会社である。創設は大正14年である。<o:p />

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   明治中期のそれぞれの発展<o:p />

明治29年から42年頃まで、この間、浅野は外国航路に大型優秀船舶を走らせること、また、日本の石油事業を盛んにすること、磐城炭鉱開発、また本来のセメント製造業や各港の築港などに奔走していた。こうした様々な都市整備の技術は台湾においての都市整備を実践しようとしていた近藤にとっても必要な技術であったはずである。<o:p />

ちなみに、正式に台湾に「浅野セメント台湾工場」を設立するのは大正6年であり、後藤の台湾総督府時代よりかなり後のことである。<o:p />

明治30年代に台湾に進出していった企業から比較すれば、やはり相当後のことと云えるであろう。浅野はこの時期、国内産業の育成で手一杯であったのだろうか?当時はひたすら、国内産業を興すことに専念していたように見える。もっとも、輸出の記録を調べるならば、台湾への輸出はあったかも知れない。<o:p />

ところで、後の京浜工業地帯埋立構想が実は既に明治41年頃から芽生えていた。東京という都市が大都会として、日本の、いや世界の東京となるには、「隣接した土地に工業地帯が必要であり、かつ国際都市としての玄関となる築港こそが必要である」との信念の元に、安田善次郎と共に「東京湾築港計画」を何度も粘り強く、役所に許可申請を行っていたのである。<o:p />

話を後藤に戻すならば、明治32年11月8日、台湾総督府鉄道部官制が成り、後藤は鉄道部長となる。この間、後藤は留学時に知り合った新渡戸稲造に台湾での仕事をバトンタッチしようと働きかけ、明治34年米国より帰国した新渡戸は、台湾総督府技師となった。<o:p />

明治37年(1904)2月8日に勃発し、38年(1905)9月5日に終結した日ロ戦争により、日本は満州鉄道の経営権を得ていた。<o:p />

明治39年7月13日には、渋沢栄一に近い民間実業家たち、即ち安田善次郎、大倉喜八郎、益田孝、浅野総一郎らは揃って、満州鉄道の創立委員となった。いつもの仲間という顔ぶれである。これを受けて、同年8月1日、後藤は満鉄総裁就任を受諾した。<o:p />

後藤が台湾を去ったのは明治39年10月3日。その後、同年11月13日、南満州鉄道株式会社総裁を命ぜられる。その後、清国の西太后に謁見したり、ロシアのニコライ2世に謁見するなど、国際人としての後藤の活躍がある。こうして、「満鉄総裁」時代がはじまり、後藤は実力のうえに、実績を積んでいく。41年には鉄道員総裁となった。<o:p />

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   明治42年<o:p />

明治42年頃、ある記録によると、浅野は後藤の家をよく訪れたとのことである。それも、信じられないほどの早朝、「大将はおるか?」と遠慮なく声を掛けながら、ぶらりとやってくる。以前からの知り合いであり、肩書きが増したからといって、各別の遠慮はない。いつものことで、自分が早起きであるから、朝一番、会いたい人を訪ねるのが浅野流であった。これならば、かならず会える。かつ、その日一日を効率的に時間に無駄なく動ける。<o:p />

さて、明治42年から大正6年頃までが浅野という男の最盛期かもしれない。関連会社70余に及んだ。なお、当時の実業家は100程度の役職を兼任している例が多く特別なことではない。渋沢栄一の場合は500余の関連会社の役員や株主などを勤めていた。しかし、ほとんどの場合、名誉職や相談役であることが多いが、浅野の場合は、創立期から実際に苦労し、工夫し、技術や経営そのものに深く関わっている場合が多いのが特徴である。<o:p />

一方、後藤も明治42年には「61日、清国皇帝から贈られた頭等雙龍宝星を身につけることが許される」「1024日自作「大国民の歌」を作曲させ刊行」などとと清国との関係を密にしながら、53歳にして非常に名誉ある地位にいた。しかし、これは本当に後藤新平が望んだ立場であったろうか。<o:p />

そうとは限らない。後藤が本当に望んだのは日本国内の真の近代化であったろう。<o:p />

浅野の構想を聞くうちに、後藤自身もおおいに刺激され、影響されたはずである。国際都市大東京構想である。道路整備、港湾整備、上下水道整備、交通網整備、隣接する工業地帯の造成。どれも実現したいことばかりであったろう。<o:p />

明治41年7月13日、桂首相に対し満鉄を逓信省管轄とすることなどの条件を出し、逓相就任を承諾した。翌14日逓相として入閣。満鉄総裁を免ぜられる。12月5日からは鉄道院総裁を兼任。清国とも親しい関係を築いていた。<o:p />

浅野が後藤の家を訪ねたというエピソードが残るのは、このように国際人として活躍していた頃。その動機は私の推測では、明治29年の時と同じであったろう。即ち、政府にどのようにアピールしたならば、進行中の外国航路経営を延ばせるかに結びつくかを相談したのではなかろうか。具体的には、「後藤新平研究会編集書籍」を参照するならば、次のようである。<o:p />

「42年2月、南洋航路補助金問題で、逓相後藤新平と面会しサンフランシスコ線の2隻は東洋汽船の新鋭船天洋丸、地洋丸(1万2千トン)を就航させ、それまで使っていた6000トン級の日本丸型2隻を南洋航路に向けることを相談」と記されている。<o:p />

そこで、後藤は明治422月の第25回帝国議会に、「造船奨励法中改正法律案」「遠洋航路補助法案」を提出する。また、「明治424月、国有鉄道に安く品質の良い浅野セメント納入を許可」こう見ると、随分、肩入れをしているように見えるが、セメント業界の実質的代表であった実力相応の結果であろう。<o:p />

次なる接点として、明治末から大正に掛けて、後藤、浅野、安田善治郎らが話し合っていたのは、下水道と幹線道路、港湾が完備した国際都市大東京構想であり、予算は13億円であった。8億円の大風呂敷よりはるかに大きな風呂敷を広げていたのであった。<o:p />

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★☆★☆ こぼれ話 ★☆★☆<o:p />

『太平洋の橋とならん』<o:p />

後藤新平が台湾総督の後任として留学時代に知り合った新渡戸稲造を推薦した。<o:p />

札幌農学校を卒業後、農商務省に勤務し、札幌農学校予科教授として活躍していた新渡戸は明治33年には、欧州視察をし、米国では「(武士道」を出版。度重なる後藤からの要請に応じて、35年、臨時台湾糖務局長を命じられ、砂糖キビの栽培改良や製糖工業育成等に務めた。このあと、京都帝大教授、台湾総督府嘱託を経て、第一高等学校長、東京女子大学学長となり、大正8年後藤新平と欧米を視察。翌9年、国際連盟事務局事務次長に就任。後藤との交遊は深い。<o:p />

余談と成るが、私が卒業した小学校は都内の小さな私立学校付属であったが、創立者は新渡戸稲造である。創立時の名は女子経済専門学校であったが、最近、新渡戸文化學園となった。家庭的雰囲気で、生徒数は少ないが、クリスチャンである新渡戸稲造氏の精神が教育理念の柱の一つになっている。子供の頃に何度も聞いた言葉が「太平洋の架け橋となれ」であった。そのせいか、半世紀以上昔であったが、英語の受業もあった。また、多磨墓地にあるお墓にお参りしたこともある。みな、どこかでつながっていると感じる。<o:p />

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写真候補<o:p />

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新渡戸稲造<o:p />

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 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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