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後藤新平と五人の実業家たち <o:p />

公共、公益の精神~  」 1.2

近年、復興をテーマに後藤新平が再評価され、それに伴い、後藤を支えた背景というものにも関心が払われはじめた。<o:p />

先日、「後藤新平と5人の実業家 ~公共、公益の精神~ 」と題して、渋沢栄一、大倉喜八郎、安田善治郎、浅野総一郎との関係や接点、その意義についてのシンポジウムが各専門家の講師の方々の参加により行われた。このことは、この分野の扉を叩くには非常に有意義であったが、まだまだ奧は深い。特に、後藤新平と浅野の関係は世間の気付かない接点が多く、また、その後の日本の下水道関係や様々な事業とも深く関係する。そこで、このコアの場をお借りして、もう少し詳しく述べていきたく、「後藤と浅野の接点」の第一段階として、先回は明治11年から14年頃までを挙げた。キーワードはコレラ対策、コールタール、石炭酸。都市衛生、下水道、衛生局などであろうか。<o:p />

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「後藤と浅野の接点 第二部」<sub><o:p /></sub>

第二の接点は、日清戦争前からその後(明治15年~明治29年まで)を挙げよう。共通の知人として児玉源太郎がいる。<sub><o:p /></sub>

近代化を急ぐ新興国日本で、後藤も浅野も切磋琢磨しそれぞれの道を邁進したが、会うべくして、逢うべき時に再度接近し、交流を持っている。まず、各人のこの十五年間の歩みを簡単に紹介しよう。<o:p />

さて、衛生局の指導もあったことであろうが、<o:p />

コレラその他の予防に石炭酸が有効であることが積極的に冊子などで広められるようになったのは明治11年(1879)から明治21年(1889)である。その石炭酸の原料がコールタールであったが、浅野という男が「ガス製造の廃棄物」に目をつけたことは当時は誰もが知る有名な話であり、当然後藤も関心を持ったことであろう。コールタール販売権は既に浅野の手から離れていたが、浅野も役員を務める東京ガスからは日々、副産物としてほぼ無尽蔵に生産されるコールタールから石炭酸が衛生局の指導で生産され、また、外科手術の器具の消毒など様々なことに有効であった。<o:p />

当時、愛知県医学校長兼愛知病院長であった後藤は、明治15年(1882)2月、長与衛生局長から衛生局御用係採用の内命を受ける。<o:p />

ところで、15年、自由民権運動の板垣退助が岐阜で暴漢に襲われた。この時、板垣を応援していた安場保和は昔からの後藤の応援者でもあり、愛知病院に電報を打ち、後藤新平が岐阜に駆けつけて板垣の治療に当たった。<o:p />

このことを契機に後藤は、板垣の影響を受け、「人の脈を取るより、国家の脈を取りたい」との志を明確に持つようになったことであろう。<o:p />

翌明治16年、1月25には内務省御用係、准奏任取扱、月俸100円。衛生局照査係副長となる。また安場保和の娘と結婚し、家庭を持つ。<o:p />

そして単なる一医師としてより、公衆衛生や伝染病予防を行政の力で組織的に向上させることに尽力した軍医石黒忠直や長与専齋衛生局長や場保和の信頼と後押しのもと、後藤は内務省衛生局で官僚としての力を発揮し、日本の公衆衛生と伝染病予防に貢献した。<o:p />

の実績から、明治23年4月5日、後藤は横浜港よりドイツに私費留学。そこで、北里柴三郎らの錚錚たる日本医学界の重鎮たちとの出会いもある。アメリカよりドイツの医学の方がまなぶべきことが多いとの石黒の経験とアドバイスから、日本の医学界はドイツを模範とすることが主流となっていた。<o:p />

後藤は明治256月には帰国し、横浜着。長与専齋の推薦もあり、11月には内務省衛生局長となった。さて、いよいよ日本の衛生環境を行政とタイアップしながら進めようと張り切った。ところが、その後、相馬事件というやっかいな騒動に巻き込まれ、翌26年11月から5ケ月間牢獄生活を送ることとなり、出所後は、それまでの地位を失うことと成った。<sup><o:p /></sup>

浪人生活を余儀なくされていた後藤だが、後藤を良く知る者は放ってはおかない。折から、日清戦争の帰還兵の間でなんとコレラ流行が凄まじく、石黒軍医の推薦で帰還兵の検疫という仕事に当たることと成っのは明治28年4月1日。臨時陸軍検疫部事務官長に任ぜられる。高等官三等。<o:p />

同年9月には再び内務省衛生局長となり、中央衛生会幹事を兼ねる。そこで出会ったのが児玉源太郎であった。この後、児玉に認められることにより、後藤の運命も変わっていく。<o:p />

ところで、この間、先進諸国は植民地政策をもってアジアに進出していた。<sub><o:p /></sub>

例えば、フランスは1887年(明治20年)にはベトナムやカンボジアの地域をフランス領インドシナとして植民地化している。また、永い間英国の植民地であったアメリカは独立を果たした後は、ハワイなどを自国領としようとしはじめる動きであった。英国は既に上海.香港に進出しており、まさに「弱肉強食」の資本主義の嵐が亜細亜を吹き荒れ、どの強国もが次の進出先を狙っていた。これに対処すべく、明治政府が「富国強兵策」をとったことは、歴史的事実である。ちなみに、「兵」とは規模の大小、新旧、優劣に関係なく、「自衛隊」とはまったく異なる。戦争ありき、を前提とした訓練と教育がなされる組織なのだから。こうして日本は明治27年7月に日清戦争に踏み切る。<sub><o:p /></sub>

後藤は明治27年5月に無罪放免と成ったがいはば浪人生活を余儀なくされた。この間、日本全体は日清戦争まっただ中という非常事態であった。戦争終結は明治28年3月。<sub><o:p /></sub>

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   浅野の飛躍<o:p />

明治16年から25年までの浅野総一郎の活躍は目覚ましく、磐城炭鉱創立、炭鉱経営経営、北海道炭販売事業、また、渋沢栄一などとともに共同運輸事務長、東京瓦斯役員、帝国ホテル創業株主、人造肥料会社創設に関与、民間麦酒会社設立、また、自力では浅野回漕部、日本海運同盟会世話役、安いタンク油を販売する浅野石油部創設し、支所を全国展開門司埋立事業、横浜築港などと枚挙にいとまない。<o:p />

従って、後藤対浅野という個人的交遊の暇も時間もないが、浅野が関わるガス会社からは無尽蔵に日々コールタールを作り、後藤が関わる衛生局では日夜、日本の伝染病撲滅と予防のために、コールタールを原料とした石炭酸が製造されていた。個人的繋がり以上の関係である。<o:p />

明治27年のある日、日本海運同盟会のまとめ役であった浅野は児玉源太郎から呼び出しを受けた。全国の船主達への協力要請であった。<o:p />

こうしてみると、後藤と浅野の共通の知人として児玉源太郎が浮かんでくることになる。<o:p />

日頃、国から特別の補助金などは受け取ってはいないが、国の一大事と成れば、出来る限りの協力をしようと、総一郎の呼びかけて、日本の津々浦々の無船主達も結束した。<sub><o:p /></sub>

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   外国航路の民間経営への挑戦と協力<o:p />

さて浅野は明治28年から29年に掛けて、、「これからの海運は外国航路にこそ道が開かれるべきである。それには民間の外国航路船会社を設立しよう!」と萌えるような情熱で、手持ち資金を創り、また株主たる同志を集め、また「会社設立の申請」を国に提出していた。それは、子供の頃からの夢、「大海原に千石船ならぬ大型近代船舶を走らせること」の実現である。ペリー来航以来の日本は英米により外国航路の航路権は全て外国に押さえられており、日本人が外国に行くにも、輸出品を送るにも、全て外国人に船賃を払う以外に方法はなかった。国も、日本国籍の外国航路会社設立の時期と捉え、様々な国策(補助制度)も打ち出していた。しかし、国が考えたのは、最大手の独占会社へ有利な補助制度が主であった。<o:p />

そんなこととは知らず、総一郎は果敢に動き、自己資金も創り、安田善治郎や森村市左右衛門その他渋沢栄一や大倉喜八郎や福沢桃介にも声を掛け、株主を集め、政府に必要な書類を提出するなどして動き出した。<sub><o:p /></sub>

さて後藤は、帰還兵の検疫業務に携わり、ここで実力を発揮する。即ち、現場で直面する諸問題、この場合はアヘン問題であったが、それをいかに解決すべきかを建白書として、内務大臣及び台湾事務局総裁伊藤博文に意見書提出する。「建白書」を政治家に提出して問題提起をする日々であったのが明治28年暮れ頃であった。ここに、浅野との接点が生まれる。<o:p />

すなわち、浅野の外国国路会社設立の書類を提出するが、政府の関係機関の承認が得られない。何かと理由をつけられてラチが開かない。国が考えたのは、最大手の独占会社へ有利な補助制度が主であって、民間人がこの分野に果敢に乗り込んでくることは想定外であったのだ。<o:p />

この状況を知った後藤新平が動いた。総一郎の真意を政府各人に納得して貰えるように、伊藤博文内閣の西園寺公望らの間を走り回ってくれたのだ。後藤は、自分も海外渡航の経験があり、浅野の大志にはおおいに共鳴するところがあったのであろう。「良いものは良い」「悪いものは悪い」とするのが後藤の行動の基準であり、当時、しきりに伊藤内閣に建白書を送っていたこともあり、浅野のために人肌脱ぐ気になったのであろう。一般民間により海外渡航船舶会社を設立することの意義に共鳴したのだ。<o:p />

偶然ながら、当時の伊藤内閣には、浅野の駆け出し時代に親しかった野村靖県令が明治27年には内務大臣を務め、明治29年には逓信大臣となっていることも、浅野という男を世間に知らしむには味方したかもしれない。<sub><o:p /></sub>

こうして、明治29年7月、浅野総一郎社長の東洋汽船が誕生する。東洋汽船はその後、それまで外国の船舶が独占的に牛耳っていた上海~横浜-ハワイ-サンフランシスコというドル箱路線に日本国籍の船をはじめて走らせる快挙を成し遂げた。その第一船が「日本丸」であり、当時としては国際的に非常に優れた優秀船であった。しかし、列強諸国は直ちに超大型船舶建造を急ぎ、世界は巨船時代と成る。逆に云えば、世界の巨船時代に火をつけたのが日本の浅野であったかもしれない。東洋汽船は大正15年までの30年間浅野の傘下にあり、後藤としても継続して見守っていった。<o:p />

浅野は勿論、東洋汽船設立時の後藤の働きに感謝はしたが、だからといって金品を送ることも、媚びることもなかったし、後藤も其れを要求もしなかったし、考えても見なかった。判断の軸が「世間」ではなく、「天」にあったからである。「公共性と公益性」という共通認識が常に行動の基盤となっていく。<o:p />

29年以降の後藤と浅野の接点はまだまだあるが、友情関係のようなな繋がりと成っていく。もし、浅野と後藤との関係が一方的なものであり、どちらかにとって好ましいものでないとすれば、後藤新平の性格ならば、あからさまに「拒絶」したであろうが、二人の交友は長い。実は日本の近代化や都市計画に大きく関わっている。明治末から大正に掛けて、後藤、浅野、安田善治郎らが話し合っていたのは、下水道と幹線道路、港湾が完備した国際都市大東京構想であり、予算は13億円であった。8億円の大風呂敷よりはるかに大きな風呂敷を広げていたのである。 今回ここまで<o:p />

 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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