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きずな ~伝承の数々~

  

  

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  2010年10月号

ココに文字を挿

東西トイレ事情あれこれ  130回  

韓国全羅北道 全州市2             新田純子

前回は全羅北道の全州市に出掛けた経緯に触れた。今回はその内容を紹介しよう。

 

 全州(チョンジュ)市は李氏朝鮮王朝発祥の地であり、市内にある韓屋村(ハノクチョン)には韓国伝統を色濃く残した家屋やお店の町並が昔のままに保存され、街全体が観光名所である。

目が慣れると、各処に伝統的なものがたくさん見つかる。例えば、家々の庭先にはたくさんのキムチの甕が並べられていたり、木製の門の閂も今となっては珍しい造りだ。

宿泊した兩班(リャンバン)の家の裏手にはオンドルがあった。床は火事を防止するために、石を敷くなど特殊な加工がしてあるそうだ。

厳しい冬を乗り切るには床暖房は非常に効率的であり、日本の明日香時代に既にこの地ではオンドルが普及していたとのこと。しかし、気候の温暖な日本にその文化は伝わらなかったようである。現代も、エアコンやガスヒーターで部屋の空気を暖めるより、床暖房には根強い人気があるとのこと。<sup></sup>

 さて、交流とはその国の文化を知ることであり、全州市名物を味わったり、観光スポットを訪ねたりすることが出来た。

人と人の交流は、国と国の交流も同じだが、相手への尊敬の言葉や思いを発すれば、それが返ってくる。逆に、攻撃的言葉や侮蔑的な言葉を発すれば、それは数倍になって返ってくる。

 さて今回の交流で、特に「食」で印象に残ったのは王朝時代の宮廷料理を再現した食事だった。日本でも有名になっているサムゲタンのおいしさは勿論格別だが、他のお料理も上品な盛りつけやお味にさすがと思った。世界中を巡り、フランス料理、中国料理、メキシコ料理などをこれまで味わったが、それらに勝る繊細さで、この料理を創った先生の腕に敬服し、韓国の伝統文化の質の高さを味わった思いだ。

キムチ造りの実習体験では本場の先生に細かく指導して頂き、自宅用土産のキムチ造り体験をした。白菜の塩加減には独自のコツがあるそうだ。こうして、ベテランの方のご案内を受け、韓国文化を少しでも正しく堪能する助けになったと思う。

韓国料理を代表する「ビビンバ」についてだが、知っていたつもりで、知らなかったことがある。ご飯の上にきれいに放射状に飾られたものを端から上品に口に入れても、本当のビビンバを食べたことにはならない。「ビビンバ」とは「かき混ぜる」との意味で、「ビビン!ビビン!」と豪快に素材を混ぜて完成するのだ。このことを体感したのは、実はホームステイ先でだっただが、そのことはまたの機会に。

金山寺などの仏教遺跡

全州市の観光名所として金山寺がある。境内はかなり広い。寺院の様式は日本のお寺によく似ているし、韓国の済州島に最近建立されたお寺にもて似ていた。また、北朝鮮に観光で行った時に見学した寺とも大きな違いはなかった。 伽藍は弥勒堂、梵鐘閣、大寂光殿、寂滅寶宮、羅漢殿と漢字で命名されている。仏教は漢字文化とともに各国に伝わったのだ。

一番驚いたのは仏舎利の塔があったこと。ご存知のように、米粒のような仏陀の遺骨を多くの信者に分けて祭っている。釈迦が生きた紀元前から2千年以上の歳月が経った現在、それらの話のどこまでが本当かと思うが、日本でも、例えば空海(774 -835年)は唐で師の恵果阿闍梨から数粒の仏舎利を頂き、持ち帰ったと伝えられる。信者の方々が真剣に信じ守っていたことは真実であり、仏舎利の存在はほんとうのことに思えて有り難い気がした。

金山寺の創建は百済時代(西暦599年)とのこと。日本で有名な白村江の戦いより前であり、日本は聖徳太子の摂政時代で、百済との交流は密。百済からは僧も来日し、仏教がどんどん入って来ていた。伽藍や仏像その他が日本の寺と同じなのは当然と云える。古代の方が現在より交流は密であり、双方が互いの関係を重視していたことがわかる。

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   「百済」 とは?

 日本の古代史に関心があるものにとって、「百済」は尽きない謎であり、興味深い。歴史に詳しい方ならばご存知かもしれないが、後漢時代(23年~220年)、朝鮮半島の日本海に面する南には三韓(辰韓、弁韓、馬韓)があり、地理的に考えて、当時の日本とこの地方の交流が既に始まっていたことは当然で、日本書記にもその記録が書かれている。

現在の全州市の場所は馬韓の一部に当たる。つまり、馬韓の一部が後の百済になる。しかし、百済の民族始祖はもっと北にあったようで、更に遡るならば、ツングース系、つまりトルコ方面から来た騎馬民族の末裔との説もある。余談となるが調べていくと、面白いことに私の永年の課題「白の秘密」を裏付けともなる次の記述を見付けた。「馬韓には五十余ヶ国が記され、その中の伯済国が百済の前身」とのこと。古代史の秘密が「白」という言葉に隠されていることは、今、ほぼ脱稿した「私の空海伝(仮題)(2013年出版予定)」に書かれているが。

さて、やがて4世紀、朝鮮半島には<sub>、</sub>百済、新羅、高句麗が王国を築いた。

百済は別名「夫余」で、高句麗から別れた氏族とも言われる。つまり、百済系の人々にとって「高句麗」または「香久里」または「香久」という言葉は遠い祖先を思い出す大切なキーワードではなかったろうかと私は推定する。

三国時代、特に百済と日本(倭国)は非常に交流が盛んで、様々な文物が日本に入っていた

   万葉集に歌われた百済

このように百済の解釈には諸説あるが、私は永年、万葉集に親しんでいるので、万葉歌から覗き見ることが出来る範囲での解釈に絞りたい。万葉集は7世紀後半から8世紀後半頃にかけて日本で編集された歌集で、歌はその頃の常識や真実を伝えているはずてある。

万葉集2巻199の長歌に、

ことさへく 百済の原ゆ かむはふり

      はふりいませる......」とある。

☆ことさへく.....言葉が違う(百済の枕言葉)

はふり .. 罪やけがれを放(はふ)り清める意

 この歌は高市皇子(たけちのみこ)という方への挽歌で、その葬列が生前ゆかりのあった処を巡っている表現なのだ。

ここに歌われた「百済」は日本の明日香辺りにあった一区域の固有名詞であり、現在の「奈良県北葛城郡広陵町百済」の地を指している。 

近鉄の田原本町と大和高田の中間点で、蘇我川が近くを流れている。日本の地ではあっても、海の向こうにあった百済と関連があることは当然であろう。日本の百済には、本場の百済から移住した人々が多く住んでいたこと、その時期は、「白村江の戦い後」と推定出来る。また、高市皇子自身が百済と何か強い絆を持っていたとも想像出来る。

高市皇子(654年- 696) は天武帝の息子である。しかし、何故、その葬儀で、わざわざ「百済の原」を通過したのか?偶然通り道であったでは済まない。

私が想定するに、その親の影響もあったであろうこと。母親は宗像尼子姫(むなかたのあまこひめ)である。宗像族は現在の福岡に近い海辺に拠点があるが、航海の女神「宗像三女神」を祭る海洋民族であり、海を渡るには彼らの力を借りることが大切であった。父親の大海皇子(天武天皇)もまた、その名の通り、海を渡ることに関しては相当の実績があったろう。皇子の若い時代は明日香時代であり、百済との関係も密であったはず。まさに「日本に来た百済の人々」との交流が非常に盛んな時であった。

高市皇子の祖母に当たる斉明天皇時代、在位5年目(西暦660年)、親交の深かった百済が唐と新羅の連合軍に攻められ負けたとの知らせを受けた。百済再興を願う人々の要請で、斉明天皇のもと援軍を仕立てたものの、九州の朝倉宮で崩御。その意志を継いで、中大兄皇子と大海皇子らが闘ったのが「白村江の戦い(西暦663年)」である。この白村江の戦いで日本水軍は、唐と新羅の連合軍に敗北した。その折、多くの百済人が日本に亡命し、日本の明日香にあった「百済」にそうした渡来人たちが住んだのである。

歴史的に「百済」は660年~663年に滅びたとされる。しかし、実は、密かに日本にこそ、滅亡後の古代百済が存在し続けたとの解釈まである。その支配階級や庶民達の多くが日本に移住したことは事実である。 

 万葉集を読むと、時代背景を知る必要があり、日本書紀(720年編纂完成)を手に取る機会が増える。全て表音文字としての漢字で書かれていて、読むのは難しいが、現代訳もある<sup></sup>

日本書紀の全てが事実か否かは別として、その時代の常識や社会常識は如実にわかる。日本書紀の古代史の記述には繰り返し、「百済」という言葉や百済関係の人物の名や交流の記録が登場する。即ち奈良朝以前も日本と百済が非常に近い存在であったことがわかる。また中大兄皇子称制時代(665年)日本朝廷は彼らを近江や東国に定住させたと記している。また、その後の持統天皇時代にも多くの渡来人が来日した記録がある。私たちはこのように互いに繋がっていた。

 「錦江」

一方、朝鮮半島南部で、長く完山州と呼ばれていた処が全州市と呼ばれるようになったのは8世紀(757年)。その後、892年に後高句麗が建てられ、後三国時代(892年~936年)が始まり、後に百済再興を願って建てられたのが「後百済(900 - 936年)」で、全州がその中心であった。

白村江は現在の「錦江」付近の入江と言われる。地図で見ると、歴史都市「夫余」とは川で繋がっているし、全州市からも近い。日本からは済州島海域から朝鮮半島を西廻りに迂回しながら北上すれば辿り着く入江である。新羅と唐の連合軍によって滅ぼされた百済の悲劇は、「宮廷の官女達が錦江湾の崖から身を投げ、その衣がヒラヒラと散った」と語り伝えられる。

日本と当時の百済は海を介して、お互いに深く影響し合っていた。ちなみに、新羅と百済の言葉の発音の違いから、その同系のルーツを辿ることも出来るが、それに関してはまた。

町内や商店街などを見て気付くことだが、通路を挟んで向かい合った家や店同志が非常に親しいということ。つまり、海を挟んだ二国こそが同じ文化圏として共存していたことは自然なこと。今後も、隣国とは海を隔てた遠い国ではなく、同じ仲間として互いを尊重して、交流していきたい。 以上

 

 

 

 


 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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