世界をつなぐ 人類の智慧 歴史

きずな ~伝承の数々~

  

  

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磐城炭鉱は首都圏から近いことに着眼した浅野総一郎がその近代化に尽力した炭鉱です。

◆幕末 から地元の人々などにより「たぬき掘りの」小規模開発がなされていた。炭質は九州産のものよりやや劣っていたこともあり、少量が時たま横浜などに出回る程度であった。横浜の浅野総一郎は当時石炭商であり、この磐城炭を扱ったこともあり、明治16年には渋沢栄一・浅野総一郎・大倉喜八郎らが地元資本とともに常磐炭坑社をつくり、明治17年、浅野総一郎.山崎藤太郎、また渋沢栄一の後押しもあり、本格的な近代化に乗り出した。後に、磐城炭鉱株式会社として発展。

常磐炭田  「磐城炭鉱社」(後の磐城炭鉱いわき散策記

◆常磐炭鉱とも呼ばれる。鉄道が出来るまでは、海路を船で運んだ。また、開業当初、炭鉱から浜までは、牛馬の力を頼る他なく、近代化が急がれ、常磐線は、当初、この地の石炭を首都圏に運ぶために立案された。最終的にその計画は「日本鉄道」に引き継がれたが、当初は、企画を持ち込んだ浅野総一郎と渋沢栄一には「セメント屋さんと銀行屋さんが鉄道をつくるとは」と言われたが、この地方の発展には是が非でも必要との信念からであった。

◆明治16年は 浅野総一郎にとって発展の年であった。渋沢栄一を助け、共同運輸の幹事役となり、おおいに働く。とともに、磐城炭鉱の開発に乗り出した。

◆磐城炭鉱の本格的近代化が実行され始めたのは明治17年からである。そもそも、当時は一区画が5千坪程度が普通であったが、その500倍の25000坪の鉱区を申請し、渋沢らと磐城地方のほとんどの鉱区を押さえ、周囲を驚かせていた。後藤象二郎さえもが開発をあきらめていたところだけに、難問は山積していて、特に運搬方法は牛馬に頼るばかり、首都圏にも危険な海路を小舟で運ぶしかなかった。この磐城の石炭を運ぶには鉄道が必要である力説し、常磐線開設計画を国に持ち込んだのも、浅野総一郎と渋沢栄一であった。

◆磐城炭鉱開発には、明治16年当初は山崎藤太郎の働き、そして、阿倍伍一などが懸命に働きました。

◆浅野総一郎は炭鉱で働く人々のために、様々な工夫をしました。 例えば、

 炭鉱にお財布を持って出入りするのも不便ですが、日常品は、ノートに買ったものを記入して、後払いにできるるようにしたり。お風呂も、湯桶を三つとして、順番に次々と入ることで、炭鉱で真っ黒になった身体もすっかりきれいになります。

◆炭鉱で働く人々に、「稼ぐに追いつく貧乏なし」と染めた手ぬぐいを渡したりして、励ましました。

磐城炭鉱関連 ホームページ

磐城炭鉱専用鉄道

石炭館

常磐炭鉱のあゆみ

 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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