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現在も残る浅野関連の企業・組織 | ![]() |
浅野学園中学校・高等学校 | 2020年に創立110周年 浅野を知る |
東亜建設工業(株) | |
JFEスチール | |
東京ガス | |
サッポロホールディングス | |
沖電気工業 | 明治14年沖牙太郎創業(浅野総一郎妻サクは沖タケ伯母 |
常磐興産株式会社 | |
三共株式会社 | |
太平洋セメント株式会社 | (明治16年創業.浅野セメント→日本セメント)+小野田セメント |
日産化学株式会社 | |
東京製綱株式会社 | |
東京海上日動火災保険株式会社 | |
東宝株式会社 | |
株式会社帝国ホテル | |
東京電力ホールデングス | |
太平洋不動産株式会社 | |
浅野保険代理部株式会社 | |
日本カーリット株式会社 | |
尼崎築港株式会社 | |
日本ヒューム株式会社 |
企業史に残る浅野関連の事業 | ![]() |
南武線 | |
青梅線(青梅電気鉄道) | |
五日市線 | |
宝伝石油(→ 日本石油) | |
東洋汽船(→ 日本郵船) | |
台湾土地株式会社 | |
関東水力(佐久発電所) | |
小牧発電所(→関西電力) | 総一郎故郷の商川に建設した発電所 昭和5年完成 |
浅野が手掛けたインフラ事業 | ![]() |
横浜築港 | |
門司築港 | |
小倉埋立(新幹線小倉駅ホームは浅野一丁目) | |
台湾土地株式会社 | |
高雄築港 |
浅野が残した名建築 | ![]() |
紫雲閣 | |
港区三田 札が辻の私邸(コンクリート建築) | |
セメント研究所 |
総一郎が創った発電施設 | ![]() |
綾瀬ダム | |
昭和3年完成 | |
小牧ダム | 昭和5年完成 ここをクリック |
エピソード | ![]() |
沖電気の前身は明工舎。電話機器のパイオニアであった。浅野家とは親戚にあたり、何かと総一郎は企業経営の相談にのっていたが、明治39年、沖牙太郎が没した後は。浅野が社長となる。沖電気株式会社となったのは、明治45年。三田に工場新設し、半導体などで優れたトップメーカーとなる。 |
会社名 | |||
セメント事業 浅野工場 | 日本セメント→ | 太平洋セメント |
明工舎(沖牙太郎創設)明治14年 沖の妻タケは総一郎妻サクの叔母 | 明治39年沖牙太郎没 浅野総一郎社長となる | 沖電気株式会社(明治45年) | |
日本ヒューム管 | 下水道管など大切な設備 | コンクリート技術が生かされている |
関連ホームページ | |||
日本カーリット(株) | 日本カーリット(ウイキペディア) |
ユーザー訪問......( 群馬水力発電と日本カーリット(株) ) | |||||
浅野総一郎 傘下の浅野石油の技術者.近藤会次郎と高峰譲吉博士の世界漫遊途上での技術招集とカーリット生産のはじまりは浅野石油部を参照してください。概要は下記の通り。 大正元年春......驚くべき発展と国内売り上げを遂げていた浅野石油部だが、そのトップの寺田洪一が倒れ、越後の宝田石油にも他の資本が入り、その活動を一時 休めていたが、次なる機会を待ち望む日々を送っていた越後の近藤会次郎(浅野石油部技師長)のもとに、浅野総一郎から「直ちに上京せよ」との電報が届いた。実はヅエルニット博士から「ロッホ式のスレートの特許を取得しないか」との誘いがあり、近藤を欧州に派遣しようとしたのだった。 折から、世界的化学者であり、タカジャスターゼ、アドレナリンの発見で有名な高峰譲吉博士が三共製薬との契約の用向きもあり、来日していた。総一郎の鶴の一声で、 大正2年7月、高峰博士、三共製薬職員3名、近藤会次郎の5人は一から二年の予定で欧州視察の旅に出発。 旅の目的の一つは、進んだ欧州の先進技術を取り入れることであった。総一郎は自社の出張という役割を担わせ、永年の友人である高峰博士一行に近藤を同伴させる。時はまさに、欧州大戦勃発の寸前であった。高峰博士、三共製薬社員、近藤会次郎一行はドイツ、してオーストリアに。そこで、スレート製造権の契約。同時に、当時世界の話題となっていた空中窒素固定法の最先端技術をドイツで研究した。 近藤会次郎は日本での石油事業(原油からの精製事業)の海外視察に浅野事業部の仕事で出かけた時、その他に関しては以前から高峰譲吉博士とは親しかった。また、高峰博士は日本での人工肥料事業では渋沢栄一や浅野総一郎、益田孝らと親しく、黎明期の日本の化学工業の牽引役を共に果たしていた。ドイツで近藤はかねての予定通り、スレート製造契約を果たし、技術者、ハインリッヒ.ホフマンを浅野の傘下に雇用の契約。近藤会次郎はその後、高峰とニューヨークへ。ここで、ベークライト博士とも面会し、後のベークライト製造に関する契約を高峰博士と三共製薬の社員たちが携わる。高峰博士はそのままニューヨークの自宅に戻る。ちなみに、ポトマック河畔 に桜の苗木を移植しようと最初に奮闘したのは高峰譲吉だが、今は桜だけが有名となり、高峰譲吉の偉業にあまり関心が払われないのは残念なことである。 さて、近藤会次郎が帰国したのは大正3年秋。 大正4年 スレート会社創設。 大正六年4月、高峰譲吉博士の帰国を祝い、上野精養軒にて祝賀会が開かれ、当時の話題は、今後の日本の化学工業の発展には大きな電力供給が必要であることであった。 浅野総一郎が永年の懸案であった水力発電を具体化することにまっしぐらになったことは当然である。総一郎は吾妻川の水利権は押さえていたが、具体的に実行する以上は東洋一、いや、世界一を目指さねば気がすまないのはいつものことである。 大正六年5月、永年の知人である福沢桃介から利根川の水利権を総一郎が取得。さっそく、図面を片手に現地を飛びまわる総一郎であった。総一郎の電源開発事業は早くから始まっており、明治二五年以前まで遡れる。 大正八年9月には富山県庄川で庄川水力発電会社創設。 大正八年10月には関東水力会社創設。社長は浅野総一郎。 この時期、再び総一郎の命により、近藤会次郎は高峰譲吉とともに欧州視察に再び出掛け、この時、ドイツにてカーリットの爆薬製造法の製造契約を結んだ。これが、日本におけるカーリット事業のまさにはじまりの瞬間である大正8年11月 カーリットの製造権の契約を結んだ。帰国後、さっそく、カーリット製造に取り組む。 大正9年1月4日、浅野カーリットの初荷が入荷。国産第一号のカーリット誕生である。 ●当初、カーリット製造は京浜工業地帯にも近く、電源もあったことにより、保土ヶ谷に工場が建てられた。そのもう一つの理由は、浅野石油部の活動と大きな関係があるが、詳細は浅野石油部の頁参照(現在は未記入)。あるいは、「総一郎の度胸人生(毎日ワンズ)」参照。それまで、高価な外国産の精製済みのガソリンを購入していたが、日本人に安い石油製品を供給しようと建設された石油精製工場が保土ヶ谷に建設され、寺田洪一が責任者、近藤会次郎が技師長であった関係がある。 さて、日本の近代化とともに電力の必要が叫ばれるとともに、熾烈な過当競争も始まった。 その弊害を防ごうと、同じ地域の電力会社の統合の必要が叫ばれ始めたのもこの頃からでもある。 さて、幾多の困難を乗り越え、昭和三年に群馬県の佐久発電所完成。この発電量は当時としては東洋一である。かつ、修理点検を経ながら、現在も水力発電を行っている。 発電量はなんと、76,800キロワットアワー。昭和初期の発電としては驚異的数字であり、現在の大規模ダムと比較しても、かなりのものである。 ●さて、カーリット製造会社もまた、豊富な電力供給地の近い群馬に工場を新設。地域の経済発展にも貢献している。 以上 |
統合などにより、浅野の名が消えた事業
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