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    大正6年頃(東洋汽船最盛期の頃)の横浜港

  日本丸をご存知ですか?  東洋汽船 第一船


 今の日本人に「日本丸ってご存知ですか?」と聞いても、知らなかったり、また、昭和5年に練習船として建造された「帆船日本丸」のことしか知らない。

 しかし、蒸気船日本丸は明治中期に太平洋を航海した貨客船であり、東洋汽船の第一船として建造された6,168総トン、17ノットの速さを誇る当時としては国際的にも第一級の船舶である。

 初代蒸気船日本丸は、「横浜-ハワイ経由-サンフランシスコ」を明治中期に航海したのだが、<sup>「蒸気船日本丸」である。</sup>大きさも、横浜に係留してある帆船の3倍以上(6168総トン)もある豪華船である。横浜港を出入りした船達の歴史を調べるならば、最も記念すべき船舶として歴史に残すべき船であるので、改めて再度、この機会にご紹介したい。

 日本丸日本丸 NIPPON MARU  太平洋の白鳥東洋汽船第一船  

6,168総トンG/T  17ノット起工 1897.3.__(30) 進水 1898.4.23(31) 竣工 1898.8.22(明31)
Sir James Laing Co.,Sunderland
建造 船客 1:106 2:14 3:383 →

日本からの処女航海は、明治31年(1898)12月15日、サンフランシスコ線に就航。香港-上海-ハワイ-サンフランシスコ航路を走った。「太平洋の白鳥」と呼ばれる非常に美しい船であった。

 

同型船にアメリカ丸、香港丸があり、それぞれ希有な運命が開けるが、3隻とも、日ロ戦争時には国の挑発を受け、インド洋方面でバルチック艦隊の動向を探るなどの役割を担った。船速が17ノットと非常に俊足であったためである。

この写真は明治33年以前の写真であることは船体が黒に塗り直される以前であることからわかる

 

  

「東洋汽船64年の歩み」などにも詳しいが、具体的に紹介するならば、「第一船の日本丸は明治311215日に香港を出帆し、廈門市、上海、長崎、神戸、横浜、そしてホノルルを経由し、明治32年1月14日にサンフランシスコに到着した。当時はハワイが米国領に組み入れられたばかりで、様々な困難があったが、東洋汽船の業績はしだいに上昇した。

サンフランシスコ航路を利用した船客の中には、野口英世や孫文が居たことが知られている。

ちなみに、現在の多くの人たちが知る帆船日本丸は昭和5年に船員志望の若者たちの為の帆で走る練習船。初代蒸気船日本丸は他社そして外国チリで運航していたが、昭和4年にチリのイキケで倉庫として使用されるようになり、船舶ではなくなった。故に、「日本丸」という船舶の名称は別の船につけることは可能となった。そんな時、日本の船員志望の若者達のための練習船の沈没などの事故があり、新しく帆船の練習船を建造することとなり、「帆船日本丸」が昭和5年に誕生したのである。現在、横浜みなとみらいに据えられ、多くの人々に愛されている。しかし、蒸気船日本丸の活躍もまたこの船の誕生に繋がっていたのだ。

はじめて太平洋を渡った日本国籍の 日本丸 動画にいたしました。 ここをクリック 

太平洋航路を行く 動画をアップロードいたしました。ここをクリックしてください。

目次 (日本丸型3隻について 明治29年~ )

    (天洋丸型3隻などについて 明治40年代~)

    (北太平洋独占時期について 大正時代)

    (日本郵船との合併以降の東洋汽船 と タンカーについて)

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東洋汽船 設立  明治29年7月

浅野総一郎は少年時代から「大海原に千石船を走らせる」ことを夢見ており着々とその夢を実現してきたことは故郷遍.明治初年国内遍で述べます。

そして、外国と日本を結ぶまさに大海原たる太平洋に1万トンもの船舶を何隻も走らせることを自分の手で、実現していきます。

明治以降、横浜-アメリカ西海岸サンフランシスコ間に日本国籍の船を走らせたのは浅野総一郎率いる東洋汽船です。まずは、ロンドンで世界の造船界と肩を並べられる当時としての最優秀船3隻を発注.建造し、そして航海させました。日本丸(6168総トン).アメリカ丸(6070総トン).香港丸(6070総トン)です。

東洋汽船

  日本丸  アメリカ丸   香港丸

6168総トン  17ノット

起工 明治30年3月

進水 明治31年4月

竣工 明治31年8月

Sir James Laing Co.,Sunderland造船所

初航海 香港発

   明治31年12月15日

6070総トン  18ノット

起工 明治30年3月

進水 明治31年3月9日

竣工 明治31年9月24日

C. S. Swan & Hunter Ltd.,Newcastle upon Tyne造船所

6070総トン 17ノット

起工 明治 年 月

進水 明治31年 月

竣工 明治 年 月

 Sir James Laing Co.,Sunderland造船所

ベリー来港以来、日本は開港したとはいえ、外国に行くには必ず外国の船に乗り、外国に船賃を払わねばならない時代が30年近く続いたのですが、いよいよ日本も外国航路に乗り出すべきという機運が産まれたのが、明治27年頃からであり、国としての後押しをする法令もできはじめました。

◆そんな時、いち早く、時代の風を受けた総一郎はそれまでの国内線の持ち船を土佐汽船に売却し、自分はあらたに、株主を集め、東洋汽船立ち上げたのです。そして、明治29年7月、自ら、航路開拓と新造船注文のために、渡米します。まずは、シアトル、そして徐々に南下し、サンフランシスコまで来た時、その港の重要性、活気を強く感じ取り、是非ともサンフランシスコと横浜間に東洋汽船の船を走らせたいと願いましたしかし、実はこの航路には既に8隻もの米国船が走っており、30年ものキャリアがあるために、簡単に日本のような新興国が入り込むことはできない。それが当時の常識でした。大手の日本郵船でさえ、手が出せない航路だったのです。

◆しかし、総一郎ならではの、ある閃きがありました。不可能を可能にする閃きです。勿論、申し込んでも、けんもほろろに断られるのがオチですが総一郎は、当時の駆け出し弁理士(弁護士)の岸清一(後のオリンピクの父)のアドバイスもあり、ニューヨークに居る社長のハンチントン氏を直接訪ねることにしたのです。

ニヨーヨークまで汽車の旅。さて、ハンチントンに対して、浅野総一郎は一つの提案をします。それは総一郎の鋭い観察力と全体を見通す力から産まれた提案ですが。実は、サンフランシスコ-横浜の航路は30年間にも渡り運行されておりどの船もかなり旧型化していたのですそこに

「最新型の優秀船3隻、我が東洋汽船がこの航路に投入するならば

この路線への参入を許可せよ」というものでした。まさに、「渡りに船」の提案である上に、ハンンチントンの心には、東洋のちぽけな国が、世界に刀鍛冶たちの並べる優秀船などを本当に投入できるものだろうかもし万一、そんなことが出来るならば、勿論、その話に乗ることはヤブサカではないという気持ちだたでしょう。船舶建造には大変な費用がかかる大仕事だからです。ハンチントン社長は、総一郎を自分の別荘に招待し、歓待しました。

 さて、ハンチントンと別れた総一郎は、なんとその足で、最新の優秀船舶建造の発注の為に、ロンドンに渡りました。港には、以前からの顔見知りの

シェル商会のサミュエル.サミユ氏が出迎えてくれ、ロンドンのホテルまで案内してくれました。船の発注などには商社が仲介し、コミションを払うのか゜通例で、額が大きいだけに、コミシヨン料も莫大な額になります。

 任せぱなしでは、どれほどが羽をはやして飛んで行くかわかりませんが総一郎は日本としての国家的事業であり、自室的に良い物を安く仕入れることが自分の役割と心得ていました。

 結局、3か月の滞在の間、英国に滞在し、幾つかの造船所から見積もりを取り、もっとも合理的に3隻の優秀船の設計打ち合わせと、発注という大事を成し終えました。例えば、たまたま船台が空いているところに注文するならば、かなり割安にすることが出来たなどの知恵と 工夫により、当時としては国際レベルでの最高の船3隻が東洋汽船の元に産まれ、そして、ハンチントン社長との契約により、その後も永く東洋汽船の元で太平洋航路を行き来することになりました。

関連 ホームページ 東洋汽船 日本丸型3隻

しかし、これは先進国の胆を冷やす行為であったのです。日本のような粟粒のような国が自分たちの持ち船より立派な船を造ったことは認めるわけにはいかず、直ちにそれよの大型の船舶建造が世界の造船界の流れとなったのです。 さいべりあ丸、コレア丸などの建造がはじまり、太平洋を走るようになります。別ページに、年表として内容を整理いたします。

           ☆★☆★☆★☆

  2章 1万トン級の豪華貨客船 天洋丸型3隻の建造 東洋汽船

 世界の動きを早くから察知した総一郎は、かなり早くから、さらなる超大型船の建造計画を立てますが、日本での理解を得るのはかなり難しいことでした。やっと周囲を説得し、かつ、新機軸の船舶を日本の造船所で建造することしました。三菱長崎造船所に天洋丸、地洋丸、春洋丸の3隻を発注することとなったのです。

この豪華客船には幾つかの顕著な特徴があります。

その1 日本初いや、世界初の液体燃料(石油焚き)で動かす設計に挑戦。

その1 国産初の超大型船舶建造

その1 あらゆる新機軸を搭載

その1  西洋の模倣だけでなく日本独自の美意識の内装。

など数えれば、キリがありません。

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東洋汽船 明治後期
 日本の造船界に輝かしい実績を残した天洋丸型3隻 

 


 

 ◆人と動物の違いは 能力や経験を伝えあうことが出来ることでしょう。

 そのことにより、人類の文化は発達し、地球の番人としての役割をも果たすようになりまはた。

 

 ◆温故知新と云われるように、人類の智慧の蓄積を学ぶことで、未来への指針が見えてきます。偉人と云われる人々は、この能力が研ぎ澄まされている為に、同じ一生という時間の枠の中で、世の中を引っ張っていく力を発揮できたのです。

 

 ◆まず日本人として、日本の古来からの歴史、また、明治以来の近代化がどのようになされたかを知ることが非常に興味深く、未来につながることと思います。

 その意味で、幕末に生を受けた一民間人、浅野総一郎の生涯を再現すること、また、その周辺の人物、例えば渋沢栄一、安田善冶郎、大倉喜八郎、益田孝、後藤新平などの人物の業績にも触れたいと思います。

 ◆また、日本各地の近代産業遺産として価値あるものをご紹介致します。

 ◆さらに、これからの子供達が工夫力、創造力をはぐくみ、新しい日本を担っていくために、一つの提案をいたしました。マジロコという木の積木です。見かけはシンプルですが、幼少期よりマニアックな大人までが楽しめる不思議な、かつ、たのしい積木です。魔方陣の原理ともう一つの数式を応用してあり、実用新案登録をしております。皆さまには広く割安でお届けしたく、努力しております。

 

 

  

 

 

    

  

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